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え、当日いきなり!?それでも鎌倉殿の無茶ぶりに応えた御家人・三浦家村の腕前

え、当日いきなり!?それでも鎌倉殿の無茶ぶりに応えた御家人・三浦家村の腕前

狩衣(かりぎぬ。貴族の狩装束だが後に武家の礼服に)から狩装束に着替えた家村は、さっそく深山路にまたがって出走します。

第四番の打出(うちだし。スタート位置)から三の的まで走り抜け、巧みな腕前を披露する様子はベテラン顔負けだったそうです。

「「「おお……っ!」」」

見守っていた御家人たちからは、実に見事であったと感嘆の声が洩れ聞こえました。

「式部(家村。駿河式部大夫)よ、天晴れじゃ!」

将軍・藤原頼嗣(ふじわらの よりつぐ)からはしきりにお褒めの言葉を伝える使者が発せられ、三浦一族の面目を施したことはもちろん、他家の者たちも称賛せぬ者はいませんでした。

終わりに

同馬塲儀也。流鏑馬十六騎。揚馬訖。而射手一人俄有霍乱之氣。申障。已及神事違例。仍於御棧敷有御沙汰。以雅樂左衛門尉時景爲御使。可勤此射手之旨。被仰駿河式部大夫家村。時景蹲居家村前傳仰。家村降自床子。答申云。亡父義村存生之時。壯年而一兩度雖令勤仕此役。癈忘隔多年也。日來縱雖有習礼。年闌後能敢不可叶事也。况於當日所作哉。更不堪身之由云々。御使申此趣之間。仰兄若狹前司泰村。慥可令勤云々。仍泰村起座。行向弟家村座前。早可應仰之旨。再往加諷詞等。時只今稱無射馬。泰村。馬者答用意之由。凡泰村存如此時儀。射馬〔号深山路。名馬也〕置鞍兮。兼以令置流鏑馬舎近邊云々。此上家村失據于遁避。自取敷皮。副于下手埒。向流鏑馬舎。公私見此儀入興。見物之輩悉以属目於馬塲下之方。相待家村所爲。家村改布衣行粧。着射手裝束。鏑者泰村之鏑也。矢与鏃己之宇津保矢〔并〕加利俣也。然後駕于件深山路。打出于第四番打出之所。至三的之際。其躰不耻古堪能云々。人々美談。時之壯觀也。射訖則又裝布衣。皈着本座之間。頻預御感御使。當家他門莫不賀之云々。

※『吾妻鏡』寛元4年(1246年)8月16日条

以上、三浦家村が無茶ぶりにも関わらず見事な腕前を魅せつけたエピソードを紹介してきました。

何だか(はっちゃけエピソードの多い)家村らしからぬ謙遜ですが、恐らく泰村と示し合わせた上で勿体をつけたものと思われます(もちろん弓馬は武士の嗜みであり、言われるまでもなく日ごろから稽古していた筈です)。

翌宝治元年(1247年)6月5日の「宝治合戦」で三浦一族は滅ぼされてしまいますが、家村は執権・北条時頼(ほうじょう ときより)の大軍を相手に、弓射の腕前を思うさま発揮したことでしょう。

そして三浦の家名を守るために鎌倉を脱出、その命脈を現代にまで受け継いだのでした。

※参考文献:

  • 細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新書、2022年8月
  • 中塚栄次郎『寛政重脩諸家譜 第三輯』國民圖書、1923年2月
 

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