奥州藤原氏の最後の王・藤原泰衡の最期と鎌倉に対する「嫌がらせ」とは?:2ページ目
義経を討ち、自らも裏切られ…
秀衡の死後、頼朝は泰衡に対してなんとしても義経を探し出すよう要請します。
泰衡は当初その要請に応えませんでした。しかし頼朝はしつこく圧力をかけ、ついに奥州や泰衡自身を攻撃しようとします。
観念した泰衡は、義経が潜んでいた衣川館を襲撃。義経の首を鎌倉へ送ると和平を望みました。しかし頼朝は、泰衡が自分を騙して義経を匿っていたことに怒り、泰衡の討伐命令を出します。
これに対し、泰衡は鎌倉軍を迎え撃つことを決めます。
まず、兄の国衡を総大将として陸奥国の阿津賀志山で合戦が起こりました。兵力は鎌倉軍が約2万5000対、藤原軍が約2万というものでした。
多勢の鎌倉軍に対して藤原軍は「阿津賀志防塁」と呼ばれる防塁を築きます。それは二重の空堀と三重の土塁で出来ており、長さは4キロメートルにも及ぶ大きなものでした。
が、この戦いは鎌倉軍の勝利で3日ほどで終結。国衡は脱出を試みるも、鎌倉軍の和田義盛に討たれます。
泰衡も退避を決め、郎党であった河田次郎を頼って北方へ逃げます。しかしこの次郎に裏切られて殺されました。享年35歳。