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【三大法難その②】法然上人、齢75にして島流し!浄土宗三大法難のひとつ「建永の法難」とは?

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法然、流罪となる

もともと後鳥羽上皇は興福寺から専修念仏の停止を求められていた立場でした。寵愛していた女房が二人も出家してしまいひどく怒り、浄土宗を弾圧する方向にかじを切り始めます。

住蓮と安楽は斬首され、二人の師である法然は土佐に島流しになることに。当時法然は75歳でした。

九条兼実はなんとか法然の流刑を止めようと動きますが、すでに政権を退いたあとで、流刑を止める力はありません。

ひどく悲しんだ兼実は「ふりすててゆくは別れのはしなれどふみわたすべきことをしぞおもふ」という惜別の歌を法然に送っています。

兼実から離れてゆく法然を口惜しく思う様と、それでもなお自分は上皇に赦免状を送って赦免の橋渡しになりたいという思いが込められています。

それに対して法然は「露の身はここかしこにと消えぬともこころはおなじ花のうてなぞ」と返します。

露のように儚い身はいつどこで消えてしまうか分からないけれど、極楽浄土の蓮の花で再会することを同じ心で願いましょう、という一生の別れになることを予感させる歌でした。

兼実はこの後も、法然の流刑地を土佐から自領である讃岐に変更するなど尽力しましたが、流刑からひと月も立たないうちに59歳で亡くなってしまいました。

ちなみにこの時、法然の門弟であった親鸞も越後に島流しにあっています。

参考資料

 

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