「関ヶ原の戦い」で翻弄された島津義弘!玉砕戦術 ”捨て奸”に至るまでの壮絶なドラマ【後編】:2ページ目
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「島津軍」のみならず「島津家」をも救った捨て奸
捨て奸とは、少数の兵で構成される殿軍が留まり、銃撃で馬上を撃ったあとは刀や槍で応戦して敵の軍を足止めするというものです。
この時、立ち膝などではなく、胡坐の姿勢で待ち構えることから胡坐陣や座禅陣とも呼ばれます。そしてこれは最後の一人が討ち死して全滅するまで戦う、まさに命がけの戦法でした。
その殿軍が全滅するとまた新たに殿軍が同じように足止めを行い、これを繰り返すことで大将を戦線から離脱させるのです。
明らかに不利な状況で戦うことになる殿軍ですが、彼らには自決も敗走も許されません。捨て奸の戦法が取られたのが後にも先にもこの時だけであった理由が分かるようです。
そして義弘は突破に成功。鬼気迫る島津軍の突破に、家康もそれ以上の追撃を諦めたようです。義弘は大和三輪山平等寺に逃げ込んだのち、薩摩に帰国しました。義弘の軍で無事に薩摩に戻ることがきたのは80数人だったといいます。
「島津の退き口」とも呼ばれるこの退却戦は、今もなお戦いの壮絶さと島津義弘と家臣の強い信頼関係を語り継いでいます。
関ケ原の戦いのあと、次々と改易や減封などの厳罰にあう西軍側の諸大名。その一方で島津家は家康から本領を安堵されました。西軍として参戦し、東軍にも大きな損害を与えたのにも関わらずこれは異例の措置でした。
一説には、関ケ原の戦いで勇猛果敢な戦を見せた義弘に、家康が脅威を覚えたからともいわれています。
「捨て奸」は戦場の島津軍のみならず、その後の島津家をも救ったのです。
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