なぜ、熊野詣(熊野御幸)に後白河法皇・後鳥羽上皇ら時の権力者たちは夢中になったのか?その核心に迫る【その3】:2ページ目
なぜ上皇たちは熊野御幸を行ったのか
院政を開始した白河・鳥羽上皇が火付け役
院政は、簡単に述べると天皇が皇位を後継者に譲り、上皇となって政務を天皇に代わり直接執ることです。上皇(出家して法皇)のことを「院」と呼んだため、院政と称されます。
様々な説がありますが、院政は膨らみすぎて形骸化した、藤原北家による独占的な摂関政治からの脱却にあったことは間違いないでしょう。
摂政は、女性もしくは幼少の天皇を扶ける役職、関白は成人した天皇の代わりに政務を行う役職です。ここには、天皇の父である上皇は含まれません。
事実、院政が開始されると、それまで摂関家に集中していた荘園は、上皇のもとに集まるようになります。また、新しい時代の担い手である武士たちも上皇に仕えるようになり、北面の武士が形成されます。それに従い、摂関政治は急速に衰えていきました。
上皇は、権力・財力・武力をあわせ持った権力者としての地位を確立したのです。しかし、その権力は、白河・鳥羽の両上皇までは絶対的であったものの、それ以降の後白河・後鳥羽の両上皇の時期になると万全なものではなくなってきます。
天皇なくては存在意義がなかった摂関政治に代わり、武力を背景にした武士たちの影がちらつき始めるのです。
しかしながら、院政の最盛期であった鳥羽上皇は、父の白河上皇がブームに火をつけた熊野御幸をさらに盛んなものにしました。
権力と富を手に入れた2人の上皇にとっては、熊野詣は「来世の安泰」を祈願する真摯な信仰心からであったと思われます。
権謀術策の末、極楽往生を願った後白河法皇
在位35年間の中で34回と最多の熊野御幸を行ったのが後白河法皇です。法皇は、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代にわたり院政を行いました。
その生涯は、台頭著しい平氏・源氏の武家勢力に対し、権謀術策を用いて武士同士の争いを起こさせることに専念したといっても過言ではないでしょう。
その結果、木曽義仲・平氏一族・源義経・奥州藤原氏など多くの武士たちが滅んでいきました。
後白河法皇に罪の意識があったかどうかは分かりません。しかし、自らが操ることにより滅亡へと追い込んだ者たちへの怖れは、絶えず法皇の中にあったと思われます。
「浄土」があるとされる神聖な熊野を数多く詣でることで、「来世の安泰」すなわち「極楽浄土」を願ったと考えても不思議はないでしょう。