まさに戦国の売りこみ名人!武将・塙団右衛門が見せた大坂の陣でのパフォーマンスとは?:2ページ目
加藤嘉明と対立
慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いでは、嘉明軍の鉄砲大将として東軍に与します。しかし、団右衛門は命令を無視したことで嘉明から「お前は将としての器と能力がない。」と咎められました。
この言葉にカチンときた団右衛門は、「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎」(お前のような小さな器に留まることなく、もっといい主君を探す(意訳))と書いた漢詩を屋敷の畳に貼り付け、出奔。
団右衛門の行動に怒りを隠せなかった嘉明は、他家が団右衛門を召し抱えないよう奉公構を出しました。
仏門の道へ
その後、団右衛門は嘉明より格上の小早川秀秋に仕えます。しかし、慶長7年(1602年)に秀秋が亡くなると、松平忠吉に仕えます。
5年後の慶長12年(1607年)に忠吉が亡くなったことで、団右衛門は出家。鉄牛の名で僧になりました。
ただ、武士としての名残があった団右衛門は、帯刀した状態で僧の修行である托鉢に臨んだことで檀家から不興を買いました。