我こそ次の鎌倉殿…源実朝の暗殺後、将軍位を狙って挙兵した源頼茂の野望【鎌倉殿の13人】:2ページ目
奮戦するも武運つたなく、火を放って自刃
……が、謀議はあっさりと発覚。
承久元年(1219年。4月12日に改元)7月13日、後鳥羽上皇(演:尾上松也)は兵を派遣して頼茂らが宿舎とする昭陽舎を完全包囲させました。
「謀叛の企みはすでに明らか。もはや勝算なきゆえ、潔く降られよ!」
将軍の座を目前?にして、野望を捨てきれなかった頼茂は昭陽舎から撃って出て、内裏の中央にある仁寿殿まで突き進みます。
が、もはやこれまで。頼茂は仲間の藤原近仲(ふじわらの ちかなか。右近将監)や源貯(みなもとの たむる。右兵衛尉)、平頼国(たいらの よりくに。前刑部丞)らと共に自刃して果てました。
それだけならまだよかったのですが、どうせ死ぬならとばかり放った火が内裏じゅうに延焼。観音像や仏具など様々な宝物が失われてしまいます。
コノ年ノ七月十三日。俄ニ頼政ガ孫ノ頼茂大内ニ候シヲ。謀反ノ心起シテ我将軍ニナラント思タリト云事アラハレテ。在京ノ武士ドモ申テ。院ヘ召ケレドマイラザリケレバ。大内裏ヲ押マハシテウチケルホドニ。内裏ニ火サシテ大内ヤケニケリ。左衛門尉盛時頸ヲ取テ参リニケリ。伊予ノ武士河野ト云ヲカタライケルガ。カウカウト申タリケルト聞ヘキ。
※『愚管抄』第六巻
頼茂の息子である源頼氏(よりうじ。下野守)も捕らわれ、ほどなく処刑されたと言うことです。
終わりに
承久元年七月大廿五日戊午。霽。酉尅。伊賀太郎左衛門尉光季使者自京都到着。申云。去十三日未刻。誅右馬權頭頼茂朝臣。虜子息下野守頼氏訖。折節若君御下向之間。故止飛脚。于今不啓子細云々。頼茂依背叡慮。遣官軍於彼在所昭陽舎〔頼茂守護大内間。住此所〕合戰。頼茂并伴類右近將監藤近仲。右兵衛尉源貯。前刑部丞平頼國等。入籠仁壽殿自殺。放火郭内殿舎以下。仁壽殿觀音像。應神天皇御輿。及大嘗會御即位藏人方往代御裝束靈物等。悉以爲灰燼。朔平門。神祗官。々外記廳。陰陽寮。園韓神等免其災云々。
※『吾妻鏡』承久元年(1219年)7月25日条
以上、実朝の死に乗じて将軍位を求めた源頼茂の謀叛を紹介してきました。
しかし『愚管抄』では将軍位を求めた謀叛としている一方、『吾妻鏡』だと「頼茂依背叡慮(頼茂が叡慮=後鳥羽上皇の意に背いたため)」としています。
これは鎌倉と京都のパイプを持つ頼茂が後鳥羽上皇らによる討幕計画を知り、内通していたため粛清されたものと見ていたのでしょう。
(もちろん、内裏で謀叛を起こすことも十分「叡慮に背いて」いますが……)
ところで鎌倉では7月19日、将軍の跡取り候補として三寅(みとら。後の藤原頼経、当時2歳)が迎えられていました。
「あぁ、京都では何か謀叛があったらしいけど……」
自分が将軍位を求めて謀叛を企んでいる間、次の将軍が既に(6月3日時点で)決定していたと知ったら、頼茂はどんな思いがしたでしょうか。
(あるいは、三寅を擁立する噂を聞いたから謀叛を企んだという可能性もありますが)
真偽はいずれにせよ、三寅が元服して征夷大将軍の位を授かるまでの数年間、鎌倉には鎌倉殿のいない不安定な時代を迎えるのでした。
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※参考文献:
- 大隅和雄『愚管抄 全現代語訳』講談社学術文庫、2012年5月
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡10 承久の乱』吉川弘文館、2010年4月
- 野口実『武門源氏の血脈 為義から義経まで』中央公論新社、2012年1月