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北条泰時の生涯と実績をたどる。御成敗式目だけじゃないぞ:後編【鎌倉殿の13人】

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エピローグ

他にも京都のような鎌倉大番役(かまくらおおばんやく。全国各地の武士たちに交代で警固させる)や四角四境祭(しかくしきょうさい。鎌倉の四方を厄祓い)を導入したり、和賀江嶋(わかえじま。鎌倉沖の人工島)に港を整備して日宋貿易を盛んにしたりなど大活躍した泰時。

仁政を心がけた一方で、院政期以来対応に苦慮してきた延暦寺や興福寺など僧兵勢力には毅然とした態度で臨み、武力で鎮圧することもしばしば。

延応元年(1239年)12月5日は亡父の盟友であった三浦義村が病没、仁治元年(1240年)には叔父の時房も亡くなり、ついに執権として独り立ちすることに。

仁治2年(1241年)、泰時は孫の北条経時(つねとき。亡き長男・時氏の子)と甥の北条実時(さねとき。弟・北条実泰の子)はじめ、評定衆らを招集。

自分の後継者に経時を指名し、実時はじめ評定衆らにその補佐を依頼しました。可愛い孫に自分と同じ苦労(後継者争い)をさせたくなかったのでしょう。

また朝廷内部にも鎌倉の勢力を食いこませるべく、四条天皇(しじょうてんのう。第87代)の崩御に際して御嵯峨天皇(ごさがてんのう。第88代)を奉戴。その外戚である土御門定通(つちみかど さだみち。泰時の妹婿)を通じて朝廷に影響力を及ぼします。

経時のために打てる手は打ち切った仁治3年(1242年)6月15日、泰時は還暦(60歳)でこの世を去ったのでした。執権職は経時によって継承され、鎌倉は新たな時代を迎えるのでした。

終わりに

以上、鎌倉幕府の第3代執権となった北条泰時の生涯を駆け足でたどってきました。

頼朝や義時以前は御家人・武士たちの権益を主張して朝廷や貴族、寺社などの旧勢力と対立していた鎌倉幕府。

それが承久の乱以後、政治の主導権を握ってからは新旧勢力の対立を調停する権力として基盤を築き上げることに成功(もちろん、朝廷とその信任を受けた「鎌倉殿」の権威を前提とすることは論を俟ちません)。

父祖の天下草創を継承し、北条の執権体制を盤石なものとした泰時は名執権として高く評価されています。

そんな泰時の墓所は鎌倉・常楽寺(鎌倉市大船)にあり、今も人々の暮らしを見守っていることでしょう。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではどのような活躍を魅せてくれるのか、今から楽しみですね!

【完】

※参考文献:

  • 上横手雅敬『北条泰時』吉川弘文館、1988年10月
  • 坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏 義時はいかに朝廷を乗り越えたか』NHK出版、2021年9月
  • 高橋慎一朗『武士の掟 「道」をめぐる鎌倉・戦国武士たちのもうひとつの戦い』新人物往来社、2012年2月
  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点 『吾妻鏡』を読みなおす』NHKブックス、2000年12月
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
 

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