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人格を疑ってしまう…平安時代の人命、軽すぎ。事故の犠牲者を平安貴族たちはどう見ていた?

人格を疑ってしまう…平安時代の人命、軽すぎ。事故の犠牲者を平安貴族たちはどう見ていた?

転落事故で大騒ぎ

以上は子供の死亡事故でしたが、では大人の事故と言うと……。

時は流れて寛弘8年(1011年)10月。三条天皇(さんじょうてんのう。第67代)の即位式が行われました。このハレ舞台を一目拝もうと多数の見物客が押しかけた結果、橋の欄干(らんかん。手すり)が壊れて転落事故が発生します。

とうぜん負傷者が出て、現場はてんやわんやの大騒ぎとなりました。が、この時の様子を式典に参加していた藤原行成(ふじわらの ゆきなり)は『権記』にこう記しました。

「群衆の呼び叫ぶ声を聴いたけれども、たまたま心身の傾動はなかった(意訳)」

行成は式典で宣命(せんみょう。天皇陛下の命令書)を読み上げる大役を務めており、すぐそばで他人がどうなろうと、動揺してしまっては末代までの名折れというもの。

平常心で任務を全うした自分エライ!という達成感に満ちあふれていますが、いくら国家の重要行事とは言え、さすがに人格を疑ってしまいそうです。

また寛仁2年(1018年)4月には、内裏の昭陽舎(しょうようしゃ。梨壺)を造営していた大工が高所から転落して死亡。

せっかくのリニューアルにケチ(穢れ)がついては困る、あるいは物忌で工期が延びてはかなわんとばかり、当局はみんなに口止めします。

しかし人の口に戸は立てられぬもの、たちまち噂は広がってしまいました。あるいは誰も話していなくても、誰かが「あれ、あの人(死んだ大工)を見かけないな……」などと感づいたのかも知れません。

これは藤原実資(さねすけ)が日記『小右記』に綴った内容ですが、察するに事故の隠蔽よりも「昭陽舎が穢れてしまったではないか」と不満を洩らしているようです。

終わりに

現代でも重大事故や不祥事について「なかったこと」にしようとする手合いは絶えないものの、人間の貴賤によって扱いが違った時代では、それがより顕著だったことがうかがえます。

今回紹介した以外にも、記録に残らぬ無数の人々が顧みられることなく世を去ったことでしょう。

思想や価値観は国や地域による違いを尊重するものの、人命の尊さだけは普遍の価値として共有したいものです。

※参考文献:

 

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