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「鎌倉殿の13人」平家を追い出し、上洛を果たしたものの…第14回「都の義仲」予習

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あまりの下品さに愛想を尽かされる

(前略)兵衛佐はかうこそゆゆしくおはしけるに、木曽の左馬頭、都の守護してありけるが、起居の振舞の無骨さ、物言ふ詞続きのかたくななる事限りなし。理かな、二歳より信濃国木曽といふ山里に三十まで住み慣れたりしかば、いかでか知るべき。

※『平家物語』巻第八「猫間」より

かつて平治の乱で敗れるまでは都で育ち、きちんと教養を身に着けていた頼朝に対して、義仲は何と粗野で下品なことか……まぁ無理もありません。

2歳の時に大蔵合戦(久寿2・1155年)で父が殺され、木曽の山奥に隠れ住んで20数年以上。都人と渡り合える教養を身に着ける余裕などなかったでしょう。

義仲の下品なエピソードと言えば、もう一つ。ある日、猫間中納言(ねこまちゅうなごん)こと藤原光隆(ふじわらの みつたか)が義仲の元を訪ねました。

「猫間殿がお見えになりました。お伝えしたいことがあるのと仰せです(猫間殿の見参にいり、申すべき事ありとていらせ給ひて候ふ)」

郎党からの報告を聞いて、義仲は爆笑。

「猫だと?猫の分際で人間様に何の用じゃ(猫は人に見参するか)」

「いえいえ、猫間という場所でお住まいだからそのように呼ばれているようです(これは、猫間の中納言殿と申す公卿で渡らせ給ふ。御宿所の名とおぼえ候ふ)」

それじゃあ会ってやろうか、と義仲は光隆を迎えます。ちょうど食事どきだったようで、

「おい。珍しい猫が来たから、飯の用意をしてやれ(猫殿のまれまれわいたるに物よそへ)」

「いえ、お構いなく……(ただいまあるべうもなし)」

「遠慮すんなよ。飯どきに来たってのは、食い物が欲しいからだろう?(いかが食時にわいたるにさてはあるべき)」

義仲はちょうど新鮮な(無塩=まだ塩漬けにしていない)平茸があったので、これらを調理させて郎党の根井小弥太行親(ねのい こやたゆきちか。義仲四天王の一人)に配膳させました。

果たして出された料理は、田舎風の大きな器にドカ盛りご飯、おかず3品に平茸汁という献立。

それだけならつき合えなくもないでしょうが、いかんせん盛りつけは汚いし食器もちゃんと洗ってあるのかどうか……光隆がドン引きしていると、義仲は機嫌を損ねて言いました。

「何だ、不満かよ。それでもとっておきの食器なんだがな(それは、義仲が精進合子ぞ)」

こうまで言われては食べない訳にもいかず、恐る恐る箸をとって、一口だけ食べる仕草を見せた光隆。これを見て義仲はますます不機嫌に。

「猫殿は少食なのか。猫が猫下ろしするなど似合わぬから、猫らしくがっついて食えばよいものを(猫殿は少食におはしけるや。聞こゆる猫おろしし給いひたり。かひ給へ)」

猫下ろしとは、自分の食べ残したものを食卓の下にいる猫へやる(下ろす)こと。ここまで言われては我慢の限界、光隆は言うべき用件も言わず退出したということです。

終わりに

他にも後白河法皇の御前で叔父・行家と序列を争っては公家たちに見下されたり、公家装束が面倒だからと甲冑姿で牛車に乗って失笑されたり、など散々な義仲。

その粗野な振る舞いゆえに頼朝の引き立て役となってしまい、都を追われて無残な最期を遂げるのですが、それはもう少し後のお話し。

しかし、頼朝は頼朝で大変です。後白河法皇の求めを受けてすぐにも上洛したいところですが、鎌倉では御家人たちの不満が爆発しそうになっていました。

上総介広常「下手をすると、鎌倉は真っ二つに割れちまうぞ」

※第13回放送「幼なじみの絆」より

第14回放送「都の義仲」は、チーム木曽の活躍ぶりと暗雲、そして鎌倉分裂の危機がどういう展開を見せるのか注目ですね。

※参考文献:

 

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