ライバルにまで守られた!?死してなお子孫を守り続けた真田幸村(信繁)の「良縁」:2ページ目
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子孫たちを守り続ける不思議な縁
片倉重長に庇護された子供たちは、その後も重長に匿われ続け、三女は重長の後室に迎えられました。
また、次男・大八は寛永17年(1640年)、28歳で伊達家(仙台藩)に召し抱えられます。この時、真田の名を聞いた幕府から「逆賊の子を匿っていたのではないか」と詰問状が届いていますが、伊達家は彼のことを幕臣・真田信尹(昌幸の弟)の次男政信の子だと弁明しました。
幕府もこれを深く追及はしなかったようです。
当時、庶民の間では大坂の陣で家康を最後まで追いつめた信繁の人気は高く、その子供を処罰したとなると騒ぎになると判断したのかもしれません。
その後、守信は姓を片倉に改め、片倉久米之介守信と改名します。
子孫が再び真田姓に戻ったのは、この守信から8代後、幕末期の真田幸歓の時です。この家系が仙台真田家として現在まで続いています。
他にも、4人目の妻・隆清院は大阪夏の陣で難を逃れ、その娘は出羽亀田藩主・岩城宣隆に嫁ぎ継室に。また信繁の戦死後すぐに誕生した三男・佐次郎も宣隆のもとに引き取られ、元服すると三好左馬之介幸信と称して扶持380石を与えられ、岩城家の家臣となっています。
そして、関ヶ原で東軍についた外様大名たちでさえ多くが改易されお家断絶となる中で、敵対する者たちからもその子孫は守られ、現在まで家系が続いています。
信繁は九度山での長い不遇時代過ごしましたが、生前から死後までも人間関係に恵まれた、不思議な人生でした。
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