「籤(くじ)引き将軍」や「万人恐怖の独裁者」など、多くの異名をもつ室町幕府の6代将軍「足利義教(あしかが よしのり)」。
そんな義教が籤引き将軍と呼ばれるようになったキッカケのほか、ビックリ恐怖エピソードについていくつか紹介したいと思います。
籤引き将軍
義教が籤引き将軍と呼ばれるようになったのには、足利家の跡継ぎ問題が関係していることはご存知でしょうか?
4代将軍「足利義持」は、嫡男である「足利義量」を5代将軍に任命、ところが、わずか数年の間に義量が病死してしまいます。政務は義持が行っていたのですが、義持にも義量にも跡継ぎとなる子供がいませんでした。けれど義持が石清水八幡宮で「新たに男児を授かる」と言った籤を引いたため、後継者を選ばなかったのです。
その後、病に侵され倒れてしまった義持ですが、それでも後継者を指名することを拒み続けました。
跡継ぎがいなくなることに危機感を感じた幕府の重臣たちは、解決策として籤引きで次期将軍を決めようと持ち掛けたのです。義持の弟4人から選ばれたのが、6代将軍「足利義教」でした。
こういった経緯から義教は、「運だけ将軍」や「籤引き将軍」と呼ばれるようになったのです。
VS延暦寺 1回戦
もともと、寺院との関係が良かった義教。
ですが、延暦寺は義教の側近であった寺社奉行が不正をしていることを公にしたのです。
激怒した義教ですが、幕府の重臣たちに「延暦寺との対立は避けるべき」と諭されたため、側近を流刑にすることで和解しました。
しかし延暦寺は、さらに同じ天台宗の別派である園城寺を焼き討ちにしたのです。これには「我慢ならん」と義教は自ら兵を率いて延暦寺を包囲します。これに驚いた延暦寺側はすぐさま降伏に応じたのだとか。