讃岐国の海に浮かぶ城!?三大水城のひとつ「高松城」の歴史と現況を解説:2ページ目
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重要文化財としての高松城
さて、生駒氏は4代にわたり高松城を居城としますが、生駒高俊の代でお家騒動(生駒騒動)が起こり改易、転封となります。
その後は、寛永19(1642)年に松平頼重が12万石で入封しました。松平頼重は、水戸徳川家初代藩主の徳川頼房の長男で、水戸黄門で有名な徳川光圀の兄にあたる人物です。
頼重が高松に入封したのは、西国諸藩の動きを監視するためだったとも言われています。
頼重は高松に入ると城内を改修し、寛文9(1669)年には3重4階+地下1階の壮大な天守が完成しました。この天守には約20の櫓が建ち並んでいたといいます。
その後、高松城は11代にわたって松平氏の居城となりますが、明治維新で旧幕府軍についたため朝敵となり、慶応4(1868)年、官軍に開城することになりました。
開城後は、外堀や城郭の北側が埋め立てられて海城の雰囲気が薄れます。中堀から内側は兵部省(のちの陸軍省)の管轄となり、城郭建物の多くは破却。明治17(1884)年には老朽化を理由に天守も解体されました。
その後、明治23(1890)年には再び松平家に払い下げとなり、昭和20(1945)年には戦災で桜御門が焼失。しかし戦後は、北の丸にある月見櫓、水手御門、渡櫓、旧東の丸の艮櫓が国の重要文化財に指定されます。
さらに昭和29(1954)年には城跡が高松市の所有となり、昭和30(1955)年に国の史跡に指定。平成24(2012)年には披雲閣の3棟が国の重要文化財に、翌25(2013)年には披雲閣庭園が国の名勝に指定され、天守台の一般公開も始まりました。この天守台は、天守閣の復元を視野に入れて修復工事されたものでした。
今は遺跡として残る高松城ですが、「海に浮かぶ城」、ぜひ天守も含めて復元してほしいですね。
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