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裏切者か、忠義の人か…「逆賊」と呼ばれ闇に葬られた戦国武将・伊集院忠棟【後編】

裏切者か、忠義の人か…「逆賊」と呼ばれ闇に葬られた戦国武将・伊集院忠棟【後編】

前編では、薩摩藩を収めていた島津家と、もともとはその老中だった伊集院家の関係に亀裂が入るまでの経緯を説明しました。

裏切者か、忠義の人か…「逆賊」と呼ばれ闇に葬られた戦国武将・伊集院忠棟【前編】

薩摩の名門・伊集院家薩摩藩の大名と言えば、鎌倉時代から江戸時代までの700年の長きにわたって南九州一帯を収めてきた島津氏が有名です。[caption id="attachment_1708…

さらにこの後、両者の間の溝は深まり、ついに内乱と暗殺にまで至ります。

豊臣方にうまく使われた忠棟

1595(文禄4)年に全国で太閤検地が実施されると、伊集院忠棟は大胆な「知行配分」を行います。

彼は地頭職を中心にその所領を大移動させ、自分自身は島津一族の北郷氏の領地であった庄内(都城)8万石を手に入れたのです。

ちなみに当時の島津義久・義弘への割り当ては10万石島津征久は1万石です。

しかしこの時は「文禄の役」の最中で、島津家の重臣の多くは朝鮮に出兵中でした。その間に勝手に領地を移動させられた者も多かったそうです。

もともと、根白坂の戦いでの軍規違反の件もあります。これでは忠棟が恨まれるようになるのも無理はありません。

もっとも、そもそも忠棟がこうした大胆な知行配分を独断で行えるはずもなく、彼はあくまでも豊臣方の命令を島津領内で粛々とこなしていっただけだったとも思えるのですが……。

この時期の豊臣政権の統治手法として、大名の家臣に領地を与えて昇格させ、その人物に領地内の調整を任せるというものがありました。つまり、領内の事情をよく知っている者をこちら側に取り込んでうまく使い、実質的に領内を豊臣方の支配下に置いていくのです。

忠棟は、こうした形で「使われた」と言えるでしょう。

戦時中の裏切り行為や、この知行配分の調整のことがあって、忠棟は島津家から恨みを買いって危険人物扱いされるようになりました。

この時の当主である島津義弘に、次期当主である島津忠恒(家久)は、再三に渡り忠棟を取り除くよう進言しました。

しかし、今や忠棟は8万石を有する大名です。迂闊に手出しすると、豊臣政権に対する反逆と捉えられかねません。

2ページ目 そして暗殺へ

 

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