裏切者か、忠義の人か…「逆賊」と呼ばれ闇に葬られた戦国武将・伊集院忠棟【後編】:2ページ目
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そして暗殺へ
事態が動いたのは1598(慶長3)年のことでした。秀吉が死去したのです。
これをチャンスと見た忠恒は、翌年の3月に京都伏見の島津邸に忠棟を呼びつけて、自らの手で斬殺しました。
この時の忠恒の言い分は、「当主である島津家をないがしろにしたので成敗した」というものでした。
この事件については、忠棟の妻が徳川家康に直訴しましたが、家康の調停によって忠恒はお咎めなしとされています。
そして、忠棟の嫡男である伊集院忠真(いじゅういん・ただざね)はこの事件を受けて、領内の庄内都城で叛旗を翻しました。
これが、島津家の最大の内乱である「庄内の乱」の始まりでした。もともと伊集院勢は九州を制した島津勢の中核的存在です。戦いは長期化しました。
この乱は家康の調停によって治まるのですが、その後も伊集院家と島津家の対立は続き、忠真は暗殺されます。
一応、忠真の死は事故死ということになっています。しかし忠真に同行していた者もまとめてその場で殺されており、暗殺だったのは間違いないようです。
この件については、実行犯は後に切腹させられ、また島津家内でもこの件を口外してはならないという口止めがなされています。
最終的に、伊集院家は皆殺しにされてしまいました。
これが、戦国時代から江戸時代への過渡期に発生した、薩摩藩における伊集院家と島津家の争いの顛末です。
その後、薩摩藩では伊集院家は国賊扱いされました。しかし後に新井白石などは、忠棟のことを「薩摩を救った忠義の人」とも評しています。
参考資料
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