とかく都の人というものは地方人をバカにしがちですが、人の貴賤は住むところによって決まるものではありません。
むしろ地方人の中にも尊敬すべき人がいる一方、都に住んでいる中にも下卑た人物は少なからずいます。
今回は平安時代、前九年の役に敗れて捕虜となり、都へ連行されて来た安倍宗任(あべの むねとう)のエピソードを紹介。奥州人の意地と都びとの傲慢を、思い知らせてやったのでした。
「この花の名を知っているか?」都びとの侮辱に、宗任は……
安倍宗任は長元5年(1032年)、奥州にその名も高き安倍頼時(よりとき)の子として誕生します。
永承6年(1051年)に父と兄・安倍貞任(さだとう)が兵を起こすとこれに従い、討伐にきた源頼義(みなもとの よりよし)・源義家(よしいえ。頼朝の高祖父)らと戦いました。
しかし武運つたなく天喜5年(1057年)に父が敗死、その意志を継いで抗戦を継続した兄も康平5年(1062年)に落命。宗任は生き残った一族をまとめて降伏します。
虜囚の辱しめを受けた宗任らは京都へ連行され、都ではまるで捕らわれた珍獣を一目見ようとばかり野次馬が押しかけました。
宗任らが護送される沿道は、押すな押すなの大盛況……そんな中、意地悪な者が梅の花枝を持ってきます。
「奥州の蝦夷(ゑみし。東国の野蛮人)は花の名など知らぬであろう……おい、これの名前を知っているか?」
宗任の鼻先に梅の花枝をつきつけると、人々はこぞって嘲笑を飛ばしました。何という侮辱……しかし宗任は毅然と言い返します。