京都の清水寺は征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院だった【前編】:2ページ目
坂上田村麻呂とはどんな人物
中学・高校の歴史の教科書をみると、平安時代初めの章に坂上田村麻呂の行った蝦夷征伐が重要事項として取り上げられています。ですので、多くの方は、坂上田村麻呂の名前はご存知だと思います。
坂上田村麻呂は、奈良時代末期の758年に坂上刈田麻呂(かりたまろ)の子として生まれました。坂上氏は渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)の一族で、代々弓馬などの「武芸」をもって朝廷に仕えた氏族でした。
父の刈田麻呂は、藤原仲麻呂(恵美押勝・えみのおしかつ)の乱が起こると、孝謙天皇側の武官として参戦します。この戦いで、刈田麻呂は仲麻呂の三男訓儒麻呂(くずまろ)を射殺し、従四位下の位を得るとともに、坂上氏を地方貴族から中央貴族に押し上げることに成功しました。
785年、坂上田村麻呂は28歳にして従五位下に昇進し、軍事貴族としての道を歩みだします。そして、桓武天皇が大伴弟麻呂を征東大使に任じた794年の第二次蝦夷征伐で、副将軍である征東副使を命じられました。
この時、田村麻呂は近衛将監・少将(正五位下)という官位にあり、桓武天皇側近の武官として、天皇から相当な信任を得ていたようです。
この時代の人々の田村麻呂への評価は、以下のようなものでした。
「武勇は人に勝る。しかし、それに奢ることなく性格は寛容で、部下をとても大切にする」
そうした田村麻呂の人柄は、桓武天皇が蝦夷征伐軍を組織するにあたり、その軍士らの検閲にあたらせていることからも伺えます。
797年、桓武朝では実質上最後となる第三次蝦夷征伐が計画されます。この時、田村麻呂は征夷大将軍を任じられ、その4年後の801年、4万の軍を率いて東北に向かいました。
この戦いで、かつて朝廷軍を完膚なきまでに破った阿弓流為(あてるい)と母禮(もれ)が降伏します。田村麻呂は彼らを伴って平安京に凱旋するものの、両雄の器量を認めたうえで、今後の蝦夷経営のために役立たせようと、朝廷に2人の助命を嘆願しました。
しかし、彼らに対して非常な憎悪を抱く朝廷首脳部は、2人を許すことなく処刑してしまいました。まだ公卿(参議以上の参政官)の地位になかった田村麻呂は、おそらくは自らの力不足を実感し、さらに阿弓流為(あてるい)と母禮(もれ)をはじめとする蝦夷征伐で命を落とした人々への慚愧の念に堪えなかったことでしょう。
その後、田村麻呂は陸奥国に赴任し、鎮守府将軍として蝦夷経営に関わりました。802年には、東北経営の拠点である胆沢城に僧侶を招き、蝦夷征伐で没した敵味方の冥福を祈ったと記録は伝えています。
平安京に戻った田村麻呂は、805年に坂上氏としては初めて参議に昇進し、公卿に列します。桓武天皇との関係も良好で、娘の春子を妃として天皇家と外戚関係を結び、桓武天皇が崩御した後も、平城・嵯峨朝で昇進を重ね、正三位大納言に昇り、811年に54歳で亡くなりました。
その死に際し、嵯峨天皇は1日政務をとらずに喪に服します。そして、田村麻呂に甲冑を纏わせた上で埋葬し、以下のように命じました。
「もし国家に非常時が起これば、田村麻呂の墳墓が鼓を打ち、雷が鳴るように知らせてくれるだろう。今後、将軍の地位にある者が出征する際には、先ずは田村麻呂の墓に詣で、その加護を祈ることとする」
優れた武人として、光仁・桓武・平城・嵯峨の4帝に仕えた坂上田村麻呂は、死して平安京の守護神となったのでした。
【前編】はここまでとします。【後編】では、坂上田村麻呂が清水寺の創建に深く関わった経緯とその思いを述べていきます。
◎参考文献
『京都ぶらり歴史探訪ウォーキング』メイツユニバーサルコンテンツ・京あゆみ研究会著(執筆・編集・撮影:高野晃彰)