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7歳で孤児に…父を求め各地を放浪。鎌倉時代に活躍した白拍子・微妙の生涯

7歳で孤児に…父を求め各地を放浪。鎌倉時代に活躍した白拍子・微妙の生涯

古郡保忠と恋に落ちるが……

鎌倉での滞在中、微妙は御家人の古郡保忠(ふるごおり やすただ)と密かに通じ合うようになりました。

ただし微妙は父を探す目的があるため、正式な結婚には踏み切れずにいたところ、同年8月に使者が鎌倉へ帰還。

「お父上は、すでに身罷られて(亡くなって)ございました」

そんな……悲嘆にくれた微妙は父の菩提を弔うために出家。名を持蓮(じれん)と改め、彼女を憐れんだ政子によって深沢里に家を与えられました。

そんな……ちょうど甲斐国への下向から鎌倉へ戻ってきた保忠は、微妙の出家に驚くばかり。

「ちくしょう、あの腐れ坊主どもが、我が愛する微妙を奪いおった!」

出家してしまえば(少なくとも建前上は)俗界と一切の縁が断ち切られ、手の届かない存在となってしまいます。

怒り狂った保忠は微妙の出家に関与した坊主らを問いただし、逃げ出すところを追いかけて散々に打ち据えました。

「あの愚か者め、愛する女性が父の死を悲しむ気持ちも解らぬか!」

保忠のブチ切れ狼藉に政子は激怒。しかし結局は微妙の心中(ついでに保忠のやるせなさ)を慮ってか不問に処されたようです。

とは言え北条に対してわだかまりは残ったらしく、後に建暦3年(1213年)の和田合戦で保忠は和田方に与し、自害して果てたのでした。

終わりに

以上、生き別れの父親を求め歩いた微妙の生涯をたどってきました。

父の死を悲しみ、菩提を弔おうと出家した微妙の孝心は世の人々から賞賛されたと言います。

しかし、保忠の帰りを待って二人が一緒になっていたら、また別の未来が待っていたかも知れませんね。

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『吾妻鏡 現代語訳 7 頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月
  • 都留市史編纂委員会『都留市史 通史編』都留市、1996年3月
 

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