死守した城・領地もろとも…「陸の孤島」統治者だった武将・内ヶ島氏理の信じられない最期:2ページ目
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誰も予想しなかった最期
11月29日のことでした。領地を保証された氏理たちは、帰雲城で祝宴を開いていたそうです。そしてその夜、突然それがやってきました。
それは、後に「天正地震」と呼ばれることになる大地震でした。被害状況から、後にこの地震の規模はマグニチュード7.9あるいは8.0〜8.1だったと推定されています。とんでもない大地震でした。
帰雲城が建っていた帰雲山は大規模な山崩れを起こし、城は崩壊、城下町も埋まり、崩れた土砂でせき止められた川が氾濫を起こし、全てが壊滅します。
夜が明けて辺りが明るくなる頃には、城も町も全てがなくなっていたのです。直後に帰還した人ですら、どこに城があったのか分からないという有様でした。
こうして、当時城にいた氏理をはじめ、内ヶ島氏も一族郎党すべてが一瞬で土砂の底へと消えてしまったのです。戦乱の世をうまくかいくぐり、城や領地をせっかく守り抜いたというのに、これは実に不運なことでした。
現在も帰雲城の場所は特定されていません。ちなみにこの天正地震の被害に遭った大名は他にもたくさんおり、美濃の大垣城は全壊・全焼、近江長浜城も倒壊、さらに砺波(となみ)郡木船城も崩壊して城主の前田秀継夫妻が亡くなっています。
内ヶ島一族についてはただ一人、氏理の弟である経聞坊(きょうもんぼう)という人が、別の場所の寺にいて難を逃れています。彼は「経聞坊文書」という書物に、この地震のことを書き残しました。
参考資料
・歴史雑談録「冬の白川郷に散る… 内ヶ島氏理に学ぶ前代未聞の滅び方。」
・岐阜県災害アーカイブ「 天正地震(天正13年)」
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