僕たちが身代わりに…奈良時代、父の釈放を求めて天皇陛下に直訴した子供たち
「どうか見逃して下さい、家でお腹をすかせた子供たちが待っているんです……」
ひと昔前のドラマなんかで、捕まったコソ泥がお涙頂戴(情状酌量)を狙って放つこのセリフ。確かに、困窮のあまり犯罪に手を染めてしまう者は、いつの時代も絶えないようです。
今回は奈良時代、そんな親子のドラマを紹介。果たして彼らに、どんなお裁きが下ったのでしょうか。
父石勝、己らを養はむが為に司の柒を盗み……
時は養老4年(720年)6月28日、大蔵省漆部司(ぬりべのつかさ)で令史(さかん)を職にあった従八位上の丈部路忌寸石勝(はせつかべのみちの いみきいわかつ)が、同僚の秦犬麻呂(はたの いぬまろ)と共に職場の漆を横領、転売することで糊口をしのいでいました。
しかし天網恢恢とはよく言ったもので犯行はすぐに発覚、両名ともに流罪の判決が下ります。
柒部司令史従八位上丈部路忌寸石勝、直丁泰犬麻呂、司の漆を盗めるに坐(つみ)せられて並(ならび)に流罪と断ぜらる。
※『続日本紀』養老4年6月28日条
石勝には三人の息子がいましたが、このままでは誰も養ってくれず、飢え死にしてしまう……それならいっそと思ったのか、あるいは純粋に父親を助けたかったのか、長男の丈部路祖父麻呂(おおじまろ)は、弟の丈部路安頭麻呂(あずまろ)、丈部路乙麻呂(おとまろ)を連れて、天皇陛下に直訴したのでした。
「父石勝、己らを養はむが為に司の柒を盗み用ゐる。その犯せる所に縁りて遠方へ配役せらる。祖父麻呂ら、父の情を慰めむが為に死を冒して上陳す。請はくは、兄弟三人を没めて官奴とし、父の重き罪を購はむことを」
※『続日本紀』養老4年6月28日条
【意訳】父は僕たちを養うために役所の漆を横領し、その罪で遠方へ流されると聞きました。僕たちは父に少しでも恩返しのため、死罪を覚悟で申し上げます。どうか僕たちを官奴(かんぬ)とする代わりに、父を許して下さい。
官奴とは役所に召し使われる奴隷のことで、祖父麻呂は「自分たちが奴隷となるので、父の罪を肩代わりさせて下さい」と申し出たのでした。
理、矜愍に在り……天皇陛下のお裁きは?
心ならずも罪を犯してまで養ってくれた父に、少しでも恩返しがしたい……その直訴は元正天皇(げんしょうてんのう。第44代)に届けられ、このように詔(みことのり。御言宣=命令)されます。
人の五常を稟くるに仁義斯れ重く、士の百行有るに孝敬を先とす。今、祖父麻呂ら、身を没めて奴と為り、父が犯せる罪を贖ひて骨肉を在らしめむと欲。理、矜愍に在り。請ふ所に依りて官奴として、即ち父石勝が罪を免すべし。但し、犬麻呂は刑部の断に依りて配処に発す
※『続日本紀』養老4年6月28日条
【意訳】人間にとって最も大切な五つの精神(仁・義・礼・智・信)のうち、仁愛と義理はとくに大切である。また、人間の様々な行為の中で、親孝行はすべてに優先する。いま祖父麻呂たちが奴隷となることで父の罪を身代わりしようとしており、実にけなげである。願いを聞き入れてこの子らを官奴とする代わり、石勝を釈放せよ。ただし、犬麻呂については判決どおり流罪とせよ。
かくして石勝は罪を赦され、官奴とされた祖父麻呂たち3兄弟も、1ヶ月後に良民(自由民の身分)に戻し、父の元へ帰ったそうです。
それからは、父子4人で助け合い、貧しくても盗みなどせず、力を合わせて乗り越えた……かどうかは『続日本紀』に記録はないものの、きっとそうであって欲しいと願います。
めでたしめでたし。
※参考文献:
- 青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中公文庫、2004年7月
- 宇治谷孟『全現代語訳 続日本紀(上)』講談社学術文庫、1992年6月