武士たちの心をワシ掴み!一目で御家人たちの本質を見抜いた源頼朝公の洞察力:2ページ目
2ページ目: 1 2
果たして、調べさせてみると確かにその通りで、敵の勢いに恐れをなした橘次は形勢不利と見るやさっさと逃げ出し、対して中八は孤軍奮闘の末に壮絶な最期を遂げたとの事です。
橘次は治承4年(1180年)から加勢したとは言っても、鎌倉方の優位を見てから平家を見限ったのであり、ひとたび不利となれば逃げだしかねない危うさがないでもありませんでした。
(ただし、一時撤退して援軍を待ってから戦おうとした判断が適切とされ、叛乱の鎮圧後は恩賞に与っています)
「それにしても、流石は御殿……ただ一度しか面識のなかった中八の誠をお見通しになるとは……」
先の奥州征伐においても頑強に抵抗を続け、捕らわれた時も「運尽きて囚人と為るは、勇士の常」と毅然たる態度で頼朝公を感心せしめた中八。
「ひとたび忠義を誓った以上、そしてご信頼をあずかった以上、命に代えてもこれに報いる」
そんな奥州武士の愚直な誠実さに、御家人たちは心を打たれたという事です。
終わりに
こうした頼朝公が御家人ひとりひとりの本質を見抜き、高く評価することによって武士たちの心をつかんだエピソードはたくさんあります。
「自分をきちんと見てくれている」
その喜びと、期待に応えんとする意気込みこそが、頼朝公をして天下に号令せしめる原動力となったのではないでしょうか。
※参考文献:
秋田魁新報社『秋田大百科事典』秋田魁新報社、1981年9月
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月
ページ: 1 2