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一本のネジから造船所へ…小栗上野介忠順が計画した幕末最大の国家プロジェクト「横須賀造船所」

一本のネジから造船所へ…小栗上野介忠順が計画した幕末最大の国家プロジェクト「横須賀造船所」:2ページ目

斯くして、小栗忠順はフランス人の技術者「レオンス・ヴェルニー」という有能なアドバイザーを得て造船所建設という大仕事に取り掛かることになります。

海外にも引けを取らない造船所を造るためには、まずその土台となる土地が重要です。ヴェルニーは三浦半島にある横須賀村を要地にするよう提案しました。その理由として、

①過去に外国船修理の実績がある
②横須賀の水深
③石造りのドライドックを据えるに耐えられる地盤の固さ
④背後に尾根があり、風の影響を受けにくく、波が立ちにくい

という点が挙げられました。このような条件はヴェルニーの母国の良港「ツーロン港」に似ていたことが決め手となったと言われます。

慶應元年(1865)、紆余曲折を経て建設が始まりました。当時の日本には、レンチやネジ等といった金属部品や道具を作る施設がなく、新しく造られた工場では、当初、そのような金属製品を造っていたので、「横須賀製鉄所」と呼ばれました。後にこの横須賀から各地へその技術が伝播していくことになりました。

横須賀製鉄所は、金属製品加工工場から始まり、長期的なプランを持って、大規模な造船所へと完成させる方向で進んでいました。しかし、慶應3年(1867)、京では将軍慶喜が大政奉還をしてしまい、その影響で小栗忠順のプランも覆されてしまいます。さらに、戊辰戦争が始まると、小栗忠順は方針の違いからお役御免となってしまいました。幕閣からの事実上のクビを宣告されると、自らの領地である権田村東善寺に身を寄せます。ところが、官軍からあらぬ嫌疑をかけられ、最期は斬首され非業の死を遂げました。ワシントンで衝撃を受けネジを持ち帰ってから7年…小栗忠順の壮大なプロジェクトは志半ばで潰えました。

横須賀で未だ発展途上の段階にあった工場は、明治政府に引き取られ、明治4年(1871)に完成を見ることになります。そして、「横須賀製鉄所」から「横須賀造船所」へと改称され、その後の日本の国力増強に大きく貢献したことは言うまでもありません。

 

大河ドラマ「青天を衝け」の中で、小栗忠順がネジに強い思いを持っているシーンが描かれています。恐らく、当時の小栗忠順はワシントンから持ち帰ったネジに世界を見ていたのかもしれません。

そして、小栗忠順の置き土産となった横須賀造船所は、第二次大戦後まで日本海軍を支え、今は在日米軍基地として日本の防衛を担っています。

 

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