お江戸の夜は危険がいっぱい?江戸時代、街の安全を守った木戸番たちの仕事や待遇を紹介
皆さんの家には、門限がありましたか?
「夕方5時までには帰って来なさい!」
「えー?中学生なんだから、もう少し延長してよ~!」
「じゃあ5時を過ぎる時は、あらかじめ行き先と誰と遊ぶかを伝えなさい」
「は~い、面倒だなぁ」
……などなど、門限が息苦しいと思う方もいれば、自分の帰りを待っている人がいてくれて嬉しいと思う方もいることでしょう。
昔の人が門限についてどう思っていたのか、そもそも各家庭に門限の概念があったのかは分かりませんが、江戸時代、特に江戸など大都市では街全体に門限がありました。
具体的には街のあちこちに木戸(きど。柵と門)が設けられ、木戸ごとにその開け閉めを管理する木戸番(きどばん。番太郎とも)がいたのですが、どのようなルールで運用されていたのでしょうか。
今回はお江戸の夜について紹介したいと思います。
江戸のある日の夜道にて
夕焼け小焼けで日が暮れて……夜もとっぷり更けたころ、四ツ刻(よつどき。午後10:00ごろ)になると番太郎は自分の管理する木戸を閉門し、原則として通行止めとなりました。
「すっかり遅くなっちまった……おい番太郎、開けてくれ」
「しょうがねぇ。こっちから通りな」
通行人は木戸の脇にある小さな通用口から通してもらいますが、なにぶん時間が時間なので不審者扱いは免れず、どこの誰か、こんな時間までどこへ行っていて、どこまで行くのか尋問を受け、その内容は記録されます。
「伊勢屋の手代、たへゑ。と……」
この記録が後で何かトラブルが発生した時に取り調べの証拠となり、木戸番ごとに照らし合わせることで、言動の矛盾点も見つけやすくなります。
「まったく……今まで、一人で呑んでたのかい」
「あぁ、もう帰るんだ」
「よし、さっさと行け。面倒ごとを起こすなよ」
さて、通行人を送り出すと、木戸番は次の木戸に向けてチョーン……と拍子木を打ちます。これは「送り拍子木」と言って「今この木戸から、そっちの木戸へ通行人が行く(※)から、対応するように」という合図になります。
(※)すぐそこの家へ帰宅するなど、明らかに「この区画から出ない」場合は打ちません。
拍子木は通行人の数だけ打つので、今回はチョーン……の一度きり。次の木戸では、通行人を待ち受け、先の木戸と同じく身元や行先などを自問・記録するのですが、もし通行人が拍子木の数通りに来なかった場合はどうなるのでしょう。
「拍子木の音は三つだったのに、お前らは二人……おい、後の一人はどこへ行った?」
「さぁ……知らねぇなぁ」
「元から俺たち二人だったよなぁ?」
「……そうかい」
こうなると、話はちょっと面倒になり、先の木戸からその木戸までの区画に住んでいる全住民を取り調べることになります。
「何だ何だ……」
「通行人が一人、行方知れずになった。お前らの中で、誰か匿っている者はいないか?もしくは空き巣に入られたかも知れん。探せ!」
現代的な感覚では「誰がどこへ行こうと、それこそ気分で行先が変わろうと個人の自由だろう」と思ってしまいますが、こと徳川将軍家のお膝元では、そんなことよりも治安の維持が最優先というものです。
「まったく人騒がせな……盗むものなんて何もねぇのによぉ」
「逆に、何か置いてってくれるかも知れねぇな」
ちなみに、火事や救急(医者や産婆など)と言った明らかに急を要する用件であれば、深夜であってもそのまま通行することが出来た一方で、盗賊や狼藉者など、治安上問題が発生した場合は昼間であっても閉鎖することがありました。