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豊臣は滅んでいなかった?秀頼の死後も豊臣の姓を受け継いだ木下利次のエピソード

豊臣は滅んでいなかった?秀頼の死後も豊臣の姓を受け継いだ木下利次のエピソード

羽柴の名字と領地を奪われるも……

かくして大叔母・高台院の養子となった羽柴利次ですが、寛永元年(1624年)に高台院が亡くなると、徳川幕府は「もう遠慮などしてやらぬ」とばかり羽柴の名字を使用禁止とし、相続した高台院の化粧領(※)1万5千石を3千石に減封

(※)けしょうりょう。文字通り「お化粧代に当てるための領地」を意味しますが、女性である高台院に与えられたから、お洒落にこう呼びました(本当に1万5千石/年分の化粧をしていたら凄いですけどね)。

利次は名字を木下に戻し、徳川家の旗本として家名を存続。辛うじて許された豊臣の姓だけを細々と次世代へ受け継いでいくのでした。

とまぁ話はこれでほぼ終わりなのですが、異常なのが利次の勤続年数。嫡男の木下利値(※)がとっくに元服(成人)しているにもかかわらず、貞享4年(1687年)に隠居するまで実に60年以上も奉公したのです。

(※)読みは不明。直の部分で「ただ、なお」などと読むか、あるいは徳の旧字体から下心などが抜けていて「なり、のり」などと読んだのかも知れません。

家督を譲ったのが実に81歳、譲られた木下利値も相当な高齢となっていたでしょうが、その理由が「まだまだ若い者には負けんわい」という自負だったのか、「羽柴(豊臣)の残党として、息子が世間から冷遇されるのを少しでも防ぎたい」という親心だったのでしょうか。

あるいは他の理由かも知れませんが、いずれにしても利次の奉公人生が決して華々しいものでなかったろうことは、想像に難くありません。

そして元禄2年(1689年)、享年83歳で世を去りましたが、その家名は木下利値⇒木下秀三(ひでみつ)⇒木下秀就(ひでなり)⇒木下利意(としおき)⇒木下利常(としつね)⇒木下利嵩(としたか)⇒木下秀般(ひでかず)⇒木下秀舜(ひでとし)……と受け継がれ、江戸時代を通じて豊臣の姓を守り抜いたのでした。

現代、木下利次の子孫がどこで何をしているのかは分かりませんが、かつて秀吉が裸一貫から天下を動かした、その証である豊臣の姓が今も受け継がれていると思うと、何だか胸が熱くなりますね。

※参考文献:
山陽新聞社編『ねねと木下家文書』山陽新聞社、1982年11月
田端泰子『北政所おね 大坂の事は、ことの葉もなし』ミネルヴァ書房、2007年8月

 

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