「少年よ、大志を抱け!」のクラーク博士、帰国後は事業パートナーに逃げられ会社は破産していた!?
明治時代の日本が近代化を推し進める上で多くの欧米人から協力を得てきました。日本で偉大な業績を残してきた外国人たちは、帰国後、どんな一生をたどったのでしょう。
今回は、当時の開拓地北海道で、日本の農業教育に大きな影響を与えたウィリアム・スミス・クラーク博士の人生について見てみましょう。
クラーク博士について
アメリカ・マサチューセッツ農科大学の初代学長クラーク博士は、1876(明治9)年、1年間の休暇を取得して来日、札幌農学校(現・北海道大学農学部)の教頭となりました。
クラーク博士の日本滞在はわずか8か月。短い滞在ではありましたが、彼の教育によって内村鑑三や新渡戸稲造など日本の宗教教育や北海道の開拓に有能な人材が育ちました。
クラーク博士といえば、〝Boys, be ambitious!(少年よ、大志を抱け!)”という言葉を残したことでも有名ですが、当の本人もかなりの野心家だったようです。
アメリカに帰国後、1879年にマサチューセッツ農科大学を辞め、学生を船に乗せて世界を巡りながら教育という、かなり壮大な計画を立てていたようです。ただ、この計画は志願する学生がそれほど集まらなく失敗してしまったようです。
ところが、それくらいでめげる博士ではありませんでした。彼はその後、洋上大学の設立を夢見、その資金を稼ぐために鉱山関連の会社を設立。
事業パートナーが逃亡
ところが、彼が事業パートナーに選んだ人物がとんでもない相手でした。
賭博や横領を繰り返し、資金は帳簿から悉くなくなっており、しかもそのまま逃亡されてしまいます。会社は1年であっけなく倒産。出資者からは詐欺容疑で訴えられてしまいます。
失意のどん底に陥ってしまったクラーク博士は、その4年後、心臓病を患い、亡くなってしまいます。
現在、札幌郊外には、遠くを指さしてすっくと立っているクラーク博士の像がありますが、志を大きく持っても、なかなかそれだけでは成功するのは難しいようです…。
参考:後藤 寿一 『ほんとはこんなに残念な日本史の偉人たち』(2018 じっぴコンパクト新書)