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武士も天下も興味はないが…心ならずも領民のために闘った戦国武将・三木国綱【上】

武士も天下も興味はないが…心ならずも領民のために闘った戦国武将・三木国綱【上】:2ページ目

姉小路頼綱の謀臣として

三木国綱が姉小路家に仕えるようになって間もない天正6年(1578年)、北の上杉謙信が急死すると、にわかに後継者争いが勃発。これによって上杉の弱体化を見越した姉小路頼綱は織田との同盟を決断します。

「刑部はいかに考える」

「畏れながら、御意の通り織田に与すべしと考えまする」

織田と同盟した姉小路家は織田の北陸進攻に協力。国綱らは陰に陽に支援していましたが、これに不満を表明したのが頼綱の嫡男である姉小路信綱(のぶつな。左衛門尉)。

「手強しと見ていた時分には内股膏薬(※)を決め込んでいたのに、弱くなったと見るやたちまちつけ入ろうとは、義に反しまするぞ!」
(※)うちまたこうやく。内股に塗り薬をつけると、歩くたびにベタベタと互いの脚にくっつくから「二つの強者(ここでは織田と上杉)のどちらにも媚びへつらう」様子を非難する言葉。

確かにそれはそうなのですが、弱肉強食の戦国乱世を生き抜く上では致し方ないこと……我が子の正論に頭を抱える頼綱でしたが、さらには実弟の鍋山顕綱(なべやま あきつな。豊後守)までもがこれに同調します。

「おのれ豊後まで……いや、ウブな左衛門尉ならともかくとして、共に謀略を重ねて来た豊後に限って、かような言説を真に受けるとは思えぬ……と言うことは上杉か、少なくとも反織田勢力と通じておるのか?」

疑心暗鬼に陥った頼綱は天正7年(1579年)、国綱らに命じて信綱・顕綱らを暗殺させました(史料によって天正11・1583年説もあります)。

「刑部よ。任せたぞ」

「お言葉ながら、ご説得はなさいませぬか?」

「無駄じゃ。あれらも馬鹿ではない。確信をもって是としたことは容易く翻意せぬ。それよりも、織田に疑われれば我らが危ない。事は急がねばならぬ」

「……然らば、荒川(あらかわ。甚平)と土川(つちがわ。新左ヱ門)を差し向けまする」

「よきに計らえ」

かくして頼綱らは飛騨領内の反織田勢力を一掃。その後も織田の部将・佐々成政(さっさ なりまさ)を支援して親上杉派の国人衆を攻め滅ぼし、その後も天正9年(1581年)から翌年にかけて武田征伐の支援など、親織田姿勢を明確にしたのでした。

【下編に続く】

※参考文献:
岡村守彦『飛騨中世史の研究』戎光祥出版、2013年10月
谷口研語『飛騨 三木一族』新人物往来社、2007年2月

 

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