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処刑メンバーを「くじ引き」で決定。幕末に起きた凄惨な切腹劇「堺事件」【前編】

処刑メンバーを「くじ引き」で決定。幕末に起きた凄惨な切腹劇「堺事件」【前編】

幕末期の日本には異国船が多く来航した。多くは軍艦であり、国内の港には諸外国の水兵の姿が溢れた。そんな中、諸藩の志士や外国船乗組員との間では死傷者を出す事件も発生した。

今回は、外国人殺傷事件の中でも多くの犠牲者を出した「堺事件」をご紹介する。

事件のあらまし

1868年。和泉国(現在の大阪府)の堺港には、フランス海軍の木造艦「デュプレクス」が港内の測量を目的として停泊していた。

停泊中、デュプレクス内から士官や水兵約30名が境に上陸。市中を騒ぎながら闊歩した。近隣住民はフランス兵を恐れ藩に通報。境港の警備を担当していた土佐藩の小隊が現場に急行した。

藩士達はフランス兵に帰船を要求したが、彼らは応じなかった。捕縛を決行するも抵抗された事で発泡。一帯は銃撃戦となった。

土佐藩小隊はボートで逃げながら抵抗するフランス兵を一斉射撃。射殺または怪我を負わせた。結果的にフランス水兵は11名が死亡。すべてが20代の若者だった。

事件後

土佐藩主・山内容堂(やまうちようどう)は、事件の知らせを受けると、関係があったイギリス公使館職員を通じて謝罪の意を表明。処罰を約束した。

日本側の対応を受け、駐日フランス公使であるレオン・ロッシュは日本に対し抗議書を提出。事件の当事者である土佐藩隊員の処刑及び、陳謝・賠償を要求した

明治政府の立場と主張

当時の明治政府は成立したばかりの新政府であり、国内は戊辰戦争が継続中であった。政府としては内政が整わない折に外国との紛争を抱えるわけにはいかない事情があり、フランスとの関係性を重んじた。

ただし、フランス側の主張を全面的に受け入れる形の決着であっては、国内に残る旧幕府軍や攘夷論者の反政府運動が活発化する事を恐れた三条実美や岩倉具視は、処罰の軽減を要求。

結果的に、処罰の対象は土佐藩隊員全員から、隊長以下20名の隊士となった。

【後編】へ続く

 

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