着物のアメリカ人に中国風のロンドン橋?江戸の人々の異国好奇心を満たした「横浜絵」とは
1853年、マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航した。所謂、黒船来航だ。ペリーの開国要求に応じた日本は日米和親条約を締結。
その後、アメリカ・オランダ・イギリス・フランス・ロシアと安政の五か国条約を結び、日本は長きに亘る鎖国を解いて、海外へと扉を開くこととなった。
外国と交易をするための港の一つに、江戸からさほど離れていない横浜が選ばれた。遠い海の向こうから異国人がやってきたことが庶民の耳にも聞き及ぶと、人々の関心は自分達とは異国人の違う顔立ちや髪と目の色、装い、持ち物などのその全てに注がれた。
横浜を訪れた外国人や居留地を画題にした浮世絵を「横浜絵」と呼ぶが、中には当時の日本人がまだ誰も目にしたことのない外国の風景を描いた作品もあり、人々の好奇心を大いに掻き立てた。
少しの参考資料と想像を膨らませて描いた外国の風景
「横浜絵」は二代目歌川広重や歌川貞秀、歌川芳員、歌川芳虎、落合芳幾、月岡芳年、歌川芳艶など多くの絵師によって描かれたが、もちろん誰一人として実際に外国へ行ってその風景を目にしたわけではない。
舶来した外国新聞の挿絵を参考にしながら描いており、二代目歌川広重による『亜墨利加賑之図』もイギリス新聞の挿絵を引用したとされている。
横浜が開港されたものの、外国人は居留地の外での活動が制限されていたため日本人との接触はほぼ無かったと考えられる。そのため、その姿や装いは横浜よりも先に開港していた長崎で出版された「長崎絵」を参考に描かれた。
絵師達は少しの参考資料と自らの想像を膨らませながら作品を描いたのである。
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