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独自の支配体制を保ち源頼朝や織田信長も恐れた僧兵集団 「比叡山 延暦寺」の武力【後編】

独自の支配体制を保ち源頼朝や織田信長も恐れた僧兵集団 「比叡山 延暦寺」の武力【後編】

武士との対立と権威失墜

神仏を盾に強訴や武力行使など、強引な手法で独立勢力を維持し続けた延暦寺だが、武家との衝突によって弱体化したこともあった。

【足利義教による制圧】
1435年。時の室町幕府6代将軍「足利義教(あしかがよしのり)」は、比叡山の長であった人物で、将軍就任後は比叡山と対立した。延暦寺は強訴に参加しなかった園城寺を焼き討ちにしたことで義教の怒りを買い、比叡山を包囲され、結果的に4名の門徒が打ち首となった。延暦寺は抗議として比叡山に火を放ち、24人の門徒が焼身自殺した。

【織田信長の焼き討ち】

戦国末期には尾張国の大名「織田信長(おだのぶなが)」と敵対する。武装解除を拒否した結果、比叡山は焼き討ちされ、多くの僧兵や僧侶が殺害された。

その後

焼き討ちによって武力を削がれた比叡山は、信長の死後になって焼失した寺社を再建。その後は本格的な武装化はされず本来の寺社としての体裁を保った。

現代まで日本仏教の母山として仰がれ、数多くの参拝者が比叡山を訪れている。1994年にはユネスコの世界遺産に登録された。

 

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