豊臣秀吉の水攻めにも落城せず。”忍の浮き城”と呼ばれた関東七名城の一つ「忍城」【前編】:2ページ目
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忍城の戦い
忍城を一躍有名にしたエピソードが豊臣秀吉による小田原攻めである。1590年、天下統一に向けて歩みを進めていた秀吉は、小田原城を本拠地としていた後北条氏を打つために大軍を差し向ける。
秀吉の軍は後北条氏傘下の忍城にも攻め寄せ、総大将を「石田三成」とする軍は2万に及んだとされる。後北条氏の家臣であった忍城城主・成田氏長は自身が小田原城に籠城していたため、代わりに「成田長親(ながちか)」が城代となる。長親は500の兵と3,000の民で忍城に籠城し三成軍と対峙した。
三成は力尽くで忍城を落とすことが難しいとわかると、忍城の周囲を囲うように全長30km近くにもなる「石田堤(いしだつつみ)」と呼ばれる堤防を築き、水攻めを画策した。
忍城はなんとか持ち堪えたが、その間に本拠地であった小田原城が開城したため戦は秀吉軍の勝利に終わる。戦には敗北したものの忍城が落城することはなく、この事実が忍城が「忍の浮き城」と呼ばれる所以となった。
【後編へ続く】
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