軍神「上杉謙信」の後継を巡って争った2人の養子「景勝」と「景虎」の雌雄【前編】:2ページ目
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上杉景虎(うえすぎかげとら)
景勝と同様に謙信の養子となり、御館の乱の要因となったもう1人の主役。
謙信が名乗っていた景虎の名を継いでいるため、謙信本人と混同されがちだが、謙信の初名は「長尾景虎」であり、別人である。
1554年、小田原に生まれる。父は戦国大名として関東を支配していた北条家3代目当主・北条氏康。初名は北条三郎。七男であった景虎は、家督を相続する可能性の低さから、幼少期に箱根の早雲寺に預けられ僧として暮らした。
1569年、北条家と上杉家が同盟(越相同盟)を結ぶと、同盟の証として翌年の3月、上杉家当主・上杉謙信の元へ養子入りが決まる。1570年には謙信と面会し、姪である清円院と祝言をあげる。謙信から初名を譲り受け正式に「景虎」と名乗った。
2人の跡取り候補
かくして、謙信には跡取り候補となる息子が2人存在することになった。2人の関係性については、正確な資料が残っていないため言及する事はできない。
しかし、1578年の3月に謙信が死亡すると、同月のうちに後継争いが勃発していることを考えると、2人が謙信亡き後の上杉家当主の座を求めていたことが伺える。
この後、上杉家は家を二分する騒動である「御館の乱」に突入し、国力を大きく低下させることになる。
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