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江戸時代「将軍」を輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【その3】

江戸時代「将軍」を輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【その3】

天下の徳川家にあって将軍家に次ぐ家格を有する御三家。その筆頭である尾張徳川家は、名家でありながら自家からの将軍輩出は叶わなかった。今回は【その2】に引き続き、尾張徳川家の歴史をご紹介する。

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江戸時代「将軍」を輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【その1】

およそ270年間続いた江戸時代。その間日本を統治した徳川将軍家からは、15人の将軍が誕生した。時の将軍は絶大な権力と名声を獲得し、国民の象徴として日本の頂点に君臨した。しかし、将軍職の決定には様々な利…

江戸時代「将軍」を輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【その2】

天下の徳川家にあって将軍家に次ぐ家格を有する御三家。その筆頭である尾張徳川家は、名家でありながら自家からの将軍輩出は叶わなかった。今回は【その1】に引き続き、尾張徳川家の歴史をご紹介する。前回…

宗春謹慎・隠居と尾張藩不遇の時代

宗春の自由経済政策は庶民の支持を集め、名古屋の城下町は江戸以上の賑わいを見せた。しかし一方で、風紀の乱れや財政の悪化を招き、宗春は一時的に政策転換を図るが、根本的な路線変更は行われなかったため、次第に藩士たちと間に溝が生まれ始める。

尾張藩の借金は嵩み、宗春は将軍家による後押しを受けた家老たちによって、謹慎・隠居に追い込まれてしまう。

その後、尾張藩は財政を立て直すために幕府の方針である質素倹約に舵を取り、9代藩主宗睦の頃には名古屋の城下町には宗春時代の活気が戻りつつあった。

しかし、宗睦は後継に恵まれず、義直から続く男系の血統は断絶してしまう。尾張藩は独自の後継者を擁立することができず、10代尾張藩藩主に就任した「徳川斉朝」は紀州徳川家の血を次ぐ一橋徳川家の出身であった。

以後、尾張藩の藩主は13代の「徳川慶臧(よしつぐ)」まで紀州徳川家の血統を受けた人物が踏襲し、尾張藩は独自の候補を擁立することができなかった。御三家筆頭としての権威は落ち、家中に将軍家への不満が鬱積していった。

2ページ目 幕末の動乱と反徳川への歩み

 

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