伊達政宗と繰り広げた骨肉の争い!戦国時代の女城主・阿南姫の生涯【3/4】:2ページ目
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蘆名家の滅亡、迫りくる伊達の大軍
「そんな、まさか……」
阿南姫の守る須賀川城に届いたのは、天正十七1589年6月5日に摺上原(すりあげはら。現:福島県磐梯町、猪苗代町)の合戦で、蘆名義広は伊達政宗に完全敗北。義広は所領を放棄し、生家の父・佐竹義重を頼って常陸国へ落ち延びた(実質的な蘆名家の滅亡)との報せでした。
「これで、蘆名もおしまいじゃ……」
「尼御台様!伊達の軍勢がこちらへ迫っておりまする!」
「もはや勝機もございませぬ!どうか、降伏のご決断を!」
気づけば須賀川城を包囲していた伊達の大軍……見ればその中には、かつて蘆名の禄を食(は)んだ≒今は裏切った者たちも少なくありません。
「……あの者たちは……」
「今や奥州の趨勢は、伊達に傾いております。勝者に従うは世の習いなれば……」
ちょうどそこへ、伊達軍から降伏勧告の使者がやって来ました。政宗からの書状は「伯母上と争うのは本意ではない。手厚くお迎え致すゆえ、どうか降伏されたし」との文言でした。
(当然、尼御台様は降伏なさるだろうな。戦っても勝ち目はないし、もともと伊達の身内だから、待遇条件も悪くなかろうし……)
二階堂家中の誰もが、そう思っていた時でした。
※参考文献:
芳賀登ら監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年
垣内和孝『伊達政宗と南奥の戦国時代』吉川弘文館、2017年
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