伊達政宗と繰り広げた骨肉の争い!戦国時代の女城主・阿南姫の生涯【1/4】:2ページ目
長男・平四郎を授かるも……蘆名盛氏の人質にとられる
さて、母ゆずりの美貌を誇ったであろう阿南姫はすくすくと成長し、やがて須賀川(すかがわ。現:福島県須賀川市)城主の二階堂盛義(にかいどう もりよし)に正室として嫁ぎました。
「ちょっと線が細いようだけれど、お優しくて聡明で、申し分ない方だわ」
盛義は武勇よりも文雅を好むインテリ気質の草食系だったそうで、夫婦仲は円満。阿南姫は21歳になった永禄四1561年、長男・平四郎(へいしろう)を授かります。
「おぉ……阿南よ、でかした!」
家族が増えた喜びを分かち合い、ますます円満な阿南&盛義夫婦でしたが、その幸せは長く続きませんでした。
その頃、二階堂一族は陸奥国黒川(現:福島県会津若松市)城主の蘆名盛氏(あしな もりうじ)と抗争を繰り広げており、永禄八1565年に降伏を余儀なくされたのです。
「和睦の証として、そなたの嫡男・平四郎君(ぎみ)を我が養子と致そう」
養子と言えば聞こえはいいものの、その実態は人質。もし盛義が再び蘆名に逆らえば、真っ先に処刑される運命が待っています。
「嫌、嫌です……たとえ一族皆殺しにされようと、平四郎は私の子です!誰の養子にも渡しません!」
愛しい我が子を手放したくないのは盛義も同じ……しかし、ここで私情を優先すれば、須賀川の民が蘆名盛氏によって蹂躙され、塗炭の苦しみを味わうことになります。
「……阿南よ、わしとて我が子を手放したくない気持ちは同じ……されど、須賀川の民もまた大切な我が子じゃ。別に平四郎が死ぬと決まった訳ではない。今は蘆名に忍従してでも、必ず親子みなで再会を果たそうぞ……!」
かくして阿南姫は、まだ5歳の平四郎と生き別れ、二階堂家は蘆名盛氏に臣従することとなったのでした。
※参考文献:
芳賀登ら監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年
垣内和孝『伊達政宗と南奥の戦国時代』吉川弘文館、2017年