決死の覚悟で恋人を救出!満洲馬賊の女親分「満洲お菊」こと山本菊子の生涯【下】:2ページ目
決死の覚悟で孫花亭を救出!その豪胆さから馬賊の女親分に
そして翌朝。
「……何か、言い残したい事はあるか」
孫花亭が刑場に引き出され、いよいよ斬首されようとしていたその時です。
「「「敵襲!敵襲ーっ!」」」
ブラゴヴェシチェンスクから夜通し駆けて来た菊子の一団は、道中次々と加勢を得て百名ほどに膨れ上がり、怒涛の勢いで関東軍の駐屯地を襲撃しました。
「あんたっ!」「老大!」
防柵を突破した菊子の一団は孫花亭の元へまっしぐら、その身柄を確保するなり疾風の如く駐屯地から脱出。
「おぉ……お前たち、来てくれたのか……それに菊子まで……」
「へへ、お菊姐さんのお蔭でさぁ」
「あんた……無事で良かった……」
事の次第を聞いた孫花亭は、菊子の豪胆さを見込んで頭領の座を譲ることを申し出ました。
「えぇっ!?いいよそんなのアタシに務まらないよ……」
「いや、菊子の決断がなければ今の俺はいない訳だし、同志のために身命を擲(なげう)てる覚悟を証明できた者こそ、頭領に相応しい」
かくして菊子は満洲馬賊の女親分「満洲お菊」として名を轟かせ、孫花亭のサポートを受けながら馬賊同士の紛争を仲裁。連携強化を推進して関東軍への抵抗を繰り広げたそうです。
彼女の発行した「通行手形(※)」は、他の馬賊が発行する手形よりも信用が高かったそうで、その勢力の強さが窺われます。
(※)街道の通行者は馬賊に通行手形を発行してもらい、手数料を支払うことで、その通行者は身柄および荷物の安全が保障されました。
エピローグ
その後、菊子は孫花亭と共に暮らしましたが、大正十二1923年4月にアムールの河口・ニコラエフスク(現:ニコラエフスク・ナ・アムーレ)で39歳の生涯に幕を下ろします。
海の向こうには樺太が、その向こうには祖国・日本がある……でも、それは菊子が帰るべき場所ではなく、大切な孫花亭と生きたこの大地こそが、彼女の故郷となっていた事でしょう。
又の名を「西伯利亞阿菊(シベリアお菊)」「大陸阿菊(大陸お菊)」などと親しまれる山本菊子の伝説は、現代でもシベリア・満洲の地に受け継がれています。
【完】
※参考資料
「歴史街道 2007年6月号 満州と満鉄の真実」PHP研究所、2007年
祖田浩一 監修『日本女性人名辞典』日本図書センター、1998年
渡辺龍策『馬賊 日中戦争史の側面』中公新書、1964年