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むっちゃカッコいい苗字!明智光秀の家臣・四王天政孝&政実兄弟の武勇伝【下】

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本能寺の変、三日天下、その後……

そして、明智光秀を語る上で外すことのできない信長へのクーデター「本能寺の変(天正十1582年6月2日)」に際しては、四王天兄弟が二手に分かれて兄・政孝は信長の嫡男・織田信忠(のぶただ)らの守る二条城(現:京都府京都市)の攻略を担当。

一方の政実は信長が宿泊していた本能寺の襲撃に加わり、信長の小姓・森蘭丸(もり らんまる。森成利)を討ち取ったと言われていますが、これには異説(政実が討ち取ったのは蘭丸の弟の力丸である等)もあるようです。

かくて各々大殊勲に沸き立ちましたが、その喜びも長くは続かず「三日天下」に終わったのは今日知られる通り……中国地方で毛利氏と戦っていた羽柴秀吉(はしば ひでよし)が急きょ舞い戻って来ると、これを京都・山崎(現:京都府大山崎町)で迎撃。

これが後世に言う「山崎の戦い(天正十1582年6月13)」ですが、この戦闘で四王天政孝は光秀を守って討死。弟・政実に光秀を託しますが、負け戦の混乱ではぐれてしまいました。

「兄者、面目次第もございませぬ……!」

光秀が落武者狩りによって殺された報せを聞き、政実は名を変えて旧知の青木紀伊守秀以(あおき きいのかみひでもち)に仕官し、秀以の転封に従って越前国(現:福井県)へ移住します。

かつて一向一揆との戦いで兄と共に攻め込んだ越前に舞い戻って来た政実は、やがて秀以が病死すると浪人になったものの、新たに越前へ赴任してきた結城秀康(ゆうき ひでやす。徳川家康の次男)に再び仕官します。

以降はこれと言った活躍も見られず、大坂の陣(慶長二十1615年)では国元の留守居役を命じられます。代わりに出陣した嫡男・四王天孝信(たかのぶ)は大いに武功を上げ、江戸時代に入ると福井藩士として越前松平家に仕え、その血脈を後世に受け継いでいくのでした。

【完】

※参考文献:
松井拳堂『丹波人物志』臨川書店、1987年
高柳光寿『人物叢書 明智光秀』吉川弘文館、1986年
二木謙一 編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年

 

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