一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【完】:2ページ目
死後、吉川家の悲願である岩国藩の初代藩主に
しかし、強力な交渉役(ネゴシエイター)として幕府からも一目置かれていた経幹が死んだと知られたら、その後(朝敵赦免)の交渉に支障が出るかも知れない……そう懸念した長州藩は経幹の死を隠すことに。
13歳になっていた長男・芳之助(よしのすけ)を元服させて吉川経健(きっかわ つねたけ)と改名。父の名代として幕府との交渉に臨みます。
そして慶応三1867年12月8日、毛利敬親・定広父子の官位復旧が決定し、晴れて長州藩は「朝敵」の汚名返上を果たしたのでした(※この時、剥奪された経幹の官位・監物も復帰しています)。
明けて慶応四1868年3月13日、新政府は岩国6万石を「岩国藩」に昇格させ、経幹は(生きているものとして)その初代藩主となったのでした。
(※ついでに経幹は駿河守にも任じられており、討幕に貢献した者たちを厚遇することで、味方の士気を高める狙いもあったことでしょう)
6万石という大身でありながら、かつて関ケ原で(忠義の故とは言え)主君・毛利家を裏切ってしまったために、江戸時代を通してずっと一領主に甘んじ続けて来た吉川家が、ついに諸侯(大名)の仲間入りを果たしたのです。
そして戊辰戦争もひとまず終息した明治元1868年12月28日、経幹は経健に家督を譲って隠居(したことにされ)、明けて明治二1869年3月20日、亡くなってちょうど2年が経った節目で、その死が正式に公表されました。
戒名は有格院春山玄静(ゆうかくいん しゅんざんげんせい)、墓所は洞泉寺(現:山口県岩国市)にあり、今も岩国の人々を見守っています。
エピローグ・岩国藩の消滅
こうして誕生した岩国藩ですが、その後は明治四1871年7月14日の廃藩置県によって消滅(岩国県に改称)してしまいました。
江戸時代を通して二百数十年来の悲願が果たされたのは、たったの3年4か月というごく短い期間でしたが、吉川家そして代々当主の忠義は、不朽の輝きをもって今なお語り継がれています。
【完】
※参考文献:
児玉幸多・北島正元 監修『藩史総覧』新人物往来社、1977年
中嶋繁雄『大名の日本地図』文春新書、2003年
大山柏『戊辰戦役史 上下』時事通信社、1968年
笠谷和比古『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』講談社学術文庫、1994年