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美女って記録にあるのに!鎌倉時代の女武者・坂額御前が醜女キャラに設定されてしまったのはなぜ?【上】

美女って記録にあるのに!鎌倉時代の女武者・坂額御前が醜女キャラに設定されてしまったのはなぜ?【上】

多くの場合、滅ぼされた王朝の貴婦人に対して課せられた事から「哀れな囚われの美女」の代名詞とされました。まさに捕らわれた坂額御前の境遇を表わすのに相応しい言葉でしょう。

また、そんな坂額御前を「妻にしたい」と申し出た甲斐国(現:山梨県)の御家人・浅利与一義遠(あさりの よいちよしとお)に対して、将軍・源頼家(みなもとの よりいえ)はこんな事を言っています。

【原文】
(前略)……時于(ときに)金吾(きんご)、件の女の面貌宜しきに似たりと雖も、心之武(こころのたけき)を思はば、誰か愛念を遺さん哉(や)……(後略)
※『吾妻鏡』建仁元年6月29日条。

【意訳】
(義遠が坂額御前を妻に求めた時、)金吾=頼家は「あやつは確かに見た目は美しいが、あぁ気性が荒くては、誰も欲しがりはするまいよ」と(馬鹿にして)言った。

しかし、心の中はどうあれ美女であったことには変わりがなく、義遠は坂額御前を妻にして甲斐国へ連れ帰り、仲睦まじく暮らしたそうです。

それなのに、どういう誤解によって醜女キャラにされてしまったのでしょうか。

【続く】

※参考文献:
貴志正造『全譯 吾妻鏡 第三巻』新人物往来社、2011年11月

 

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