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実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【上】

実は頼朝以上の大器だった?石橋山の合戦で頼朝を見逃した大庭景親の壮大な戦略スケール【上】:2ページ目

頼朝公「九死に一生!」シーンを両書で比較

さて、それでは『吾妻鏡』と『源平盛衰記』で、頼朝公が急死に一生を得たシーンをそれぞれ比較してみましょう。

※両書の原文を詳細に載せていくと冗長になってしまうため、今回は割愛(意訳のみ紹介)させて頂きます。
※また、訳者によって細部のディティールが異なる場合もあります。

【吾妻鏡】
梶原景時は頼朝公の隠れた洞窟(鵐の窟-しとどのいわや)の場所を知っていながら、景親に「こっちの山に頼朝はいなかった。あっちの山が怪しい」と進言。全軍がそちらへ向かったため、頼朝公は命拾いをした。

【源平盛衰記】
梶原景時は巨木の洞(うろ。あるいは倒木の下)に隠れていた頼朝公を匿おうとしたところ、すぐ近くまで景親がやってきた。
「その中はもう確認したのか」と景親が尋ねたところ、景時は「既に確認したが、頼朝はいなかった」と回答。
その様子を少し怪しんだ景親は「念のため、もう一回確認しよう」と自分の弓を突っ込んで何度か引っかき回す。
弓の先端が洞の底に潜んでいた頼朝公の袖(鎧のパーツ)に触れると、洞の中から二羽の鳩が飛び出し、羽ばたいていった。
鳩が出てきたことで、景親も「……確かに、この中には誰もいないようだ」と納得したが、部下に「ここを頼朝が隠れ場所に出来ぬよう、岩をもって塞いでおけ」と指示。
景親の軍勢が去った後、頼朝公はどうにか岩をどけて脱出、九死に一生を得たのであった……。

『吾妻鏡』の随分あっさりした記述に対して、『源平盛衰記』の読んでいるこっちがハラハラさせられる記述……これがソツなくまとめた「公式文書」と、想像力の翼を思いっきり広げた「歴史物語」との差なのでしょう。

しかし、もしも後書に一部の真実があるとすれば……?という前提で、『源平盛衰記』の記述を掘り下げてみましょう。

【続く】

※参考文献:
五味文彦 編『現代語訳吾妻鏡〈1〉頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年10月
田中幸江 訳『完訳 源平盛衰記 四』勉誠出版、2005年9月
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』2012年8月

 

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