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命令か友情か…相反するものの狭間に立たされた戦国武将・相良義陽の苦渋の決断

命令か友情か…相反するものの狭間に立たされた戦国武将・相良義陽の苦渋の決断:2ページ目

命令か友情か、義陽決断の時!

降伏した義陽に義久は勢力拡大のため、義陽と同じ肥後国の戦国大名である阿蘇家の守る御船城を攻めることを命じます。しかし、御船城には義陽と親しい付き合いのあった阿蘇家の家臣、甲斐宗運(かい-そううん)がいました。

2人は相互不可侵の誓詞を交わした仲だったので、義陽は息子のために島津家に従うか宗運との誓詞を守るか苦渋の選択を迫られることになりました。

決断の末に義陽が選んだ運命…

苦しみ悩んだ挙句、義陽は宗運と戦うことを決めます。そのための前段階として誓詞を焼き捨て、自身が討ち死にし子孫が繁栄することを神に祈りました。そして天正9年(1581)の12月、義陽は響野原(ひびきのはら)に陣を敷きます。

しかし、響野原は周りを山に囲まれた守りにくい土地で陣を敷くには不向きな場所でした。

これには宗運も驚いたようで内心、「義陽が死を望んでいる」と思いながらも義陽と戦うために布陣しました。

そして、両者は霧の立ちこめる響野原で戦うことになります(響野原の戦い)。戦いは宗運が霧を利用した奇襲をしかけたことで、相良軍は総崩れになります。

しかし、義陽は逃げることはせずに床几に座ったままの状態でおり、最後は宗運の家臣によって討ち取られました

義陽の死は宗運はもとより、島津義弘も悲しませ、敵味方から死を惜しまれました。

最後に

誓いのために命すら惜しんだ義陽。友との誓いと従属した島津家との命令の狭間で苦しみぬいた答えが死だったというのは戦国時代なりの責任の取り方ではないかと思います。

死を持って最善の答えを見出した義陽は義に生きつつも、どこか不器用な人物だったと思ってしまいます。

参考:円道祥之『戦国友情伝~戦乱が結びつけた!?男と男~』

 

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