戦場で生まれた絆!奥州征伐で抜け駆けした鎌倉武士の縁談エピソード【下】:2ページ目
知らぬは本人たちばかり……遠く奥州で決まった縁談
そこで清近は提案します。
「ほうじゃ……ウチに娘がおるんじゃが、小次郎ンとこのご嫡男……太郎君(たろうぎみ。後に元服して長光)のおかっさん(嫁)にどうでぇ?」
「いいんけ?あンずでぇおじょうもん(いいのか?あのとても美しいお嬢さんを)」
「いいさよー。太郎君は男前で文武両道と来りゃあ、お似合いじゃんねー」
……いやいや「いいさよー」じゃないよ、いくら親の都合とは言え、せめて事前に打診くらいしてやんなさいよ、とツッコミを入れたくもなりますが、命を救われた恩義と、弟分を失った戦友の哀しみを前に、清近は愛娘を差し出さずにはいられなかったのでした。
そんな二人の美しい友情を見ていたのは、風に揺れる敵将の生首二つ。彼らも遠く甲州と信州の地で、知らぬ間に結婚が決まった(面識があるかどうかも怪しい)若い二人を祝福してくれているのでしょうか。
やがて、はぐれていた義村たちが合流。今回の殴り込みで討死したのは狩野五郎親光ひとり、奪った首級は葛西三郎清重(かさいの さぶろうきよしげ)と河村千鶴丸(かわむらの せんつるまる。後に元服して四郎秀清)がいくつか。他の者は敵を倒したものの首級を奪う余裕がなく、すべて打ち捨ててきたそうです。
今回の戦功によって行光は奥州岩手郡厨川(現:岩手県盛岡市)に領地を賜り、その後、嫡男の工藤長光が妻(清近の娘)たちと共に厨川へ移住。奥州の有力武士として、末永く繁栄したのでした。
ひょんなことから結ばれた縁談でしたが、共に戦場を潜り抜けた父親同士の絆に思いを馳せ、きっと深い愛情を育み合ったことでしょう。
【完】
※参考文献:
貴志正造 訳注『新版 全訳 吾妻鏡 第二巻 自巻第八 至巻十六』新人物往来社、2011年11月30日
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月20日