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織田信長に殺された悲劇の女城主「おつやの方」がたどった数奇な運命【上】

織田信長に殺された悲劇の女城主「おつやの方」がたどった数奇な運命【上】

景任の死による平和の終焉

さて、武田氏に臣従しながら艶との結婚によって信長とも誼(よしみ)を通じた景任は、織田・武田(甲尾同盟)の仲立ちとして、両雄のパワーバランスを保つ役割を果たすと共に、織田・武田というネームバリューを後ろ盾に、東美濃をどうにか治めていました。

艶は岩村城に嫁いだ「岩村御前(いわむらごぜん)」、あるいは景任の官位(修理亮-しゅりのすけ)から「修理婦人(しゅりふじん)」などと呼ばれていたそうです。ちなみに結婚生活については特に記録がないため、幸せであったことを願うばかりです。

しかし、元亀三1572年8月14日に景任が病死すると、信長は東美濃の支配権を奪うべく異母兄・織田信広(のぶひろ)と家臣の河尻秀隆(かわじり ひでたか)の軍勢を派遣、岩村城を占領します。

景任には子供がいなかったため、信長の五男・御坊丸(ごぼうまる。後の織田勝長)を艶の養子に送り込み、まんまと遠山家を乗っ取ってしまいました。

しかし、御坊丸はまだ幼少であった事から、艶が後見人として城主を務めるよう信長に命じられます。

かくして岩村の女城主として東美濃を治めることとなった艶ですが、実質的には信長の傀儡(かいらい。操り人形)であり、また、東美濃が織田の勢力下に入ったとなれば、武田信玄も黙ってはいないでしょう。

ここに甲尾同盟は終わりを告げ、岩村城は織田・武田戦争の最前線として激闘が繰り広げられるのでした。

【中編へ続く】

参考文献:
加藤護一 編『恵那郡史』恵那郡教育会、大正十五1926年
川口素生『戦国軍師人名辞典』学研M文庫、平成二十一2009年
平山優『新編 武田二十四勝正伝』武田神社、平成二十一2009年

 

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