桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った服部小平太と毛利新介…その後の人生どうなった?【二】:2ページ目
【服部小平太】朝鮮出兵と羽柴秀次の失脚、そして悲劇の最期
さて、城持ち大名となった小平太は、秀吉の後継予定者である甥の羽柴秀次(はしば ひでつぐ)の補佐役を命じられ、この頃に秀次の「次」の一字を拝領して自分(一忠)の「忠」と合わせた「忠次」と改名したものと思われます。
明けて文禄元1592年4月、豊臣秀吉が朝鮮征伐(文永の役)の兵を興すと小平太(服部春安)は第二軍(朝鮮国都表出勢衆)の八番隊に所属。兵800を率いて若年の隊将・浅野幸長(あさの よしなが)を補佐して漢城(現:韓国ソウル)に進軍、その後も伊達政宗(だて まさむね)や加藤清正(かとう きよまさ)らと共に各地で奮戦しました。
1年以上にわたる激戦の末、翌文永二1593年の休戦によって日本へ帰還した小平太の元へ、秀吉より男児誕生の報せが届きます。
その名は拾丸(ひろいまる)、後の豊臣秀頼(とよとみ ひでより)ですが、彼の誕生によって、それまで後継者とされていた秀次の立場は一気に危ういものとなりました。
可愛い我が子を後継者にしたい秀吉は、秀次に対してあれこれと難癖をつけた挙句、強制的に出家させて高野山に追放(蟄居)、切腹にまで追い込みます。
秀次の補佐役でもあった小平太も、この連座(とばっちり)で所領を没収(改易)され、その身柄は五大老の一人・上杉景勝(うえすぎ かげかつ)に預けられた挙句、切腹を命じられてしまいました。
時は文禄四1595年7月、享年50歳前後と推測されます。
ちなみに、小平太には男子がおり、長男は夭折したのか不明ですが、次男の服部勝長(かつなが)は小平太の同僚として秀次の連座で切腹した木村常陸介重玆(きむら ひたちのすけしげこれ)の家臣・大大崎玄蕃充長行(おおさき げんばのじょうながゆき)の養子として引き取られ、後に福島正則(ふくしま まさのり)や紀州徳川家に仕えたとのことです。
参考文献
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』 吉川弘文館、2010年10月27日
- 橋場日月『歴史群像 織田信長と戦国時代 信長が寵愛した八人の側近たち』学研、2014年11月