手洗いをしっかりしよう!Japaaan

貞女は二夫にまみえず!陰謀から御家を守り抜いた戦国時代の女城主・清心尼(三)

貞女は二夫にまみえず!陰謀から御家を守り抜いた戦国時代の女城主・清心尼(三)

遠野への転封辞令、憤る家臣たち

「遠野……にございますか?」

「うむ。そなたらでなければ務まらぬ重役。父上と義母上によろしく伝えよ」

寛永四1627年、南部利直は直義に対して陸奥国閉伊郡(現:岩手県遠野市)への転封(領地替え)を命じます。

この一帯はかつて阿曽沼(あそぬま)一族が支配していましたが、豊臣秀吉による小田原攻め(天正十八1590年)に参加しなかったことで秀吉の怒りを買って改易(領地没収)され、南部藩に与えられました。

しかし、南部藩の圧政に対する阿曽沼一族はじめ土着勢力の抵抗が繰り返される不安定な政情が続いており、また、南方から仙台藩の伊達政宗が虎視眈々と北上の機会を狙っていました(※相次ぐ反乱は、伊達政宗が裏で糸を引いていたとも考えられています)。

当然、直義は南部藩の筆頭家老としての職責があるため盛岡から離れることはできず、実質的に清心尼一人で移動の段取りを整えねばなりません。

当然、家臣たちからは異論が続出します。

「ただでさえ当主のご不在に尼御台様が難儀されている中で、人心いまだ定まらぬ遠野を治めよとは、何とご無体な……!

「遠路の移動にかかる莫大な費用は当方の負担に加え、転封先の遠野は痩せて荒廃しておるとも聞く……斯様(かよう)な仕置、断じて受け入れる訳には参らぬ!」

「左様。斯くなる上は宗家に弓引き奉ってでも、御屋形様にご再考いただこうぞ!」

これまで数々の謀略に対して不満が鬱積していた家臣たちは、今にも盛岡へ攻めかからんばかりにいきり立っていました。

さて、彼らの思いに清心尼はどう応えるのでしょうか。

【続く】

参考文献

  • 巌手県教育会上閉伊郡部会 編『上閉伊郡志』巌手県教育会上閉伊郡部会、大正二1913年
  • 青森県史編纂中世部会『青森県史 資料編 中世1 南部氏関係資料』青森県、平成十六2004年3月31日
  • 八戸市史編纂委員会 編『新編八戸市史 通史編2(近世)』八戸市、2013年3月
 

RELATED 関連する記事