諸行無常の響きあり…裏切りに絶望した悲劇の貴公子・平清経の生涯(下):2ページ目
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エピローグ
清経が身を投げたのは豊前国柳浦(現:大分県宇佐市柳ヶ浦)の沖合と言われており、現代では駅館川(やっかんがわ)の河口付近に、清経を弔う五輪塔と慰霊碑が建立されています。
これらは清経の父・重盛が「小松殿」とあだ名されたことから「小松塚(こまつづか)」と呼ばれていますが、父に仕えてその恩義に与っておきながら、その息子を裏切った惟義らに対する当てつけなのでしょうか。
裏切りに絶望し、冷たい海に身投げをした貴公子の悲劇は広く世間の反響を呼び、後世に室町時代の能楽師・世阿弥(ぜあみ)が清経をテーマにした能「清経」を演ずるなど、芸術分野に影響を与えています。
清経の死から1年半後、平家一門はいっときこそ勢力を盛り返しますが、元暦二1185年3月24日、壇ノ浦の戦いに敗れ、滅亡してしまいました。
清経が都落ちの時に持ち去った名刀「吠丸」と「鵜丸」については同年(改元して文治元年)10月に回収され、再び朝廷に献上されています。
また、能「清経」によれば、清経は都落ちに際して愛妻を京の都に残しており、家人の淡津三郎(あわづの さぶろう)が清経の遺髪と形見の横笛などを届けに走るのですが、それはまた別の話。
平家が滅んで源氏の世となり、その源氏もまた滅び……そんな無常の歴史を彩る徒花と咲いた悲劇の貴公子・平清経のエピソードでした。
【完】
※参考文献:
『ビジュアル源平1000人』世界文化社、2011年11月1日、第1刷
梶原正昭ら校注『平家物語 下 新日本古典文学大系45』岩波書店、1993年10月27日、第1刷
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