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「国賊」か「英雄」か?時代によって足利尊氏の評価が大きく異なっていた理由

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1863(文久三)年には伊予国松山藩の藩士・三輪田綱一郎らが足利家の菩提寺である京都・等持院に乱入し、足利尊氏・義詮・義満ら3将軍の木像の首を奪って三条河原に晒すという事件も起きています。綱一郎らは尊王攘夷派の浪士であり、三将軍を「逆族の首魁」とみなしたのです。

そして、明治時代になると、国定教科書「尋常小学日本歴史」の記述が南北朝併立であることが問題となり、政府は教科書の使用の禁止。その後の歴史教育では南朝を正当とし、「南朝」は「吉野の朝廷」と改められ、尊氏は「賊軍の首魁」と指導されるようになります。

こうして尊氏は、何世紀にもわたって「逆臣」の汚名を着せられ誤解され続けられました。ところが、戦後の歴史教育の変化に伴いようやく誤解も解け、逆臣から一気に英雄として扱われるようになりました。

そして昭和30年代には吉川英治の歴史小説『私本太平記』が出版され、尊氏が寛大で正直者の人間味あふれる人物として描かれるようになると、尊氏の人気がますます高まり、NHKの大河ドラマ「太平記」の主人公として登場するまでになりました。

参考

 

 

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