怒り抑えきれず…「新古今和歌集」の選者だった藤原定家は暴力沙汰を起こしたことがあった!?:2ページ目
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性格も相まって暴力沙汰へ
定家は元来頭に血が上りやすい性格でした。その性格が災いとなるのが文治元年(1185)の23歳の時です。
源雅行に侮辱された定家は溢れる怒りを抑えきれず、近くにあった脂燭(しそく:小型の照明具)で雅行を殴ってしまいます。
しかし、この時行われていたのが大嘗祭(天皇が即位した時に行われる来年の豊作を祈願する儀式)で、多数ある宮廷行事の中でも最も重要視される大嘗祭でやらかした定家は官職から追放されてしまいました。
しかし、父・俊成のおかげで事なきを得ます。
その後も定家は性格を改善することはありませんでした。
その結果、承久2年(1220)の58歳の時に歌の理論上の違いから以前より口論していた後鳥羽上皇から謹慎処分を言い渡されてしまいます。
後鳥羽上皇も気性が激しい性格だったので、こうなることは必然でした。
しかし、翌年に起きた承久の乱で後鳥羽上皇が流刑に処されると定家を取り巻く状況は一変し、悠々自適な生活を送れるようになったのでした。
最後に
歌聖と呼ばれるだけあって定家の性格は温厚と思っていたので、こういうエピソードから本来の性格が真逆だったことがわかり驚きでした。
自分を抑えることなく思ったことをやる定家は異端かと思うかもしれません。しかし、異端の方が誰も予想しなかったことを平然とやってのけるのも事実です。
だからこそ、定家は後世に残る歌人になったと考えてしまいますね。
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