信長もその死を悲しんだ…死んでもなお漢の生き様を示した「鳥居強右衛門」の悲劇
長篠の戦いで織田信長の勝利の陰に、鳥居強右衛門というあまり知られていない武士の活躍がありました。
惚れる!長篠の勝利に貢献した武士・鳥居強右衛門のアツ過ぎる生きざま!って鳥居強右衛門て誰?
窮地に陥った織田軍を救うべく、援軍の要請に成功した強右衛門の活躍はまだまだ続きます。
あと一歩のところで…ついに万策尽きるか?
岡崎城で織田信長に窮状を訴え、長篠城に38000の援軍を出してもらえる約束を取り付けた鳥居強右衛門は、信長と家康に休んで行くように言われたのも断って引き返します。長篠から岡崎までの距離は片道65km、往復で130kmも鳥居は走ったのです。
長篠城を包囲している武田は精鋭を15,000も率いていますが、倍以上の織田・徳川連合ならば間違いなく彼らを蹴散らせますし、長篠城も陥落せずに済むでしょう。そんな鳥居の期待と希望を打ち砕いたのは、武田軍による捕縛でした。
彼が捕まった原因は、往復の際に上げた烽火だったという、何とも皮肉なものでした。16日の朝にも来た時と同じ烽火を上げてから長篠城に入ろうとしていたため、城から歓声が上がり、陥落しないのに武田軍の武士達も気づいていたのです。
鳥居を取り押さえさせた勝頼は、怒ると同時に彼の勇気ある人柄と行動力に惚れ込みます。
「援軍は来ないから降参しろと言いなさい。そうすれば、命は助けるし厚遇も約束しよう」
と鳥居を説得したのでした。長篠城を陥落させる上に勇将も得られるのですから、兵法の名手だった勝頼らしい一石二鳥の計略といえます。
敵の大将直々に称賛の言葉と厚遇を与えられたら、寝返りが当たり前の戦国時代では、藤堂高虎や竹中半兵衛のように承知するのが常識でもありました。鳥居も「分かりました」と一旦承知こそしますが、彼の腹は決まっていました。
命がけの叫びが長篠城の命運を変える
程なくして長篠城門前に突き出された鳥居は、勝頼に言われたのとは正反対に
「援軍は2、3日もあれば来ます!それまで耐えて下さい!!」
と大声で叫び、貞昌を始めとした奥平軍の士気を大いに奮い立たせたのでした。
降伏しなかった鳥居はこの直後、勝頼の命で磔もしくは斬首され、数え年にして36歳の若さで世を去ったのでした。
鳥居は長篠の勝利を見ずして散りましたが、その壮絶な末路は敵味方を問わず感銘を与えました。処刑前の鳥居と親しくなった武田家家臣・落合左平次道久は、磔になった鳥居の姿を絵にした旗指物でその勇気を讃えました。半裸で逆さ吊りにされた厳つい風貌をした男性の意匠が施された旗指物は、今も現存しています。
また、信長はその死を悲しんで鳥居の妻の出身地・作手村(新城市作手)に墓を建立させ、主人であった奥平貞昌は鳥居の子孫を手厚く待遇してして、強右衛門の手柄に報い、子孫は現在まで続くこととなりました。
戦国時代で熱い生き様を見せた人物と言えば武将のイメージが強いですが、その他の人々も苛烈な時代を自分なりに切り抜けていました。鳥居強右衛門は、下級武士でありながら武将に匹敵する闘志を持った一人だったといえます。