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これぞ5000年前の縄文人パワー!火焔式土器、その圧倒的造形美に誰もが言葉をなくす

これぞ5000年前の縄文人パワー!火焔式土器、その圧倒的造形美に誰もが言葉をなくす

日本一の大河といえば総延長367kmの信濃川。この流域は今も昔も多種多様な動植物の宝庫です。

諸説ありますが13000年以上昔、この地を含む東日本一帯で暮らしていた縄文人によって、世界で最も早い時期に縄文土器が作られました。そして縄文土器は北海道から沖縄まで、日本全土に広がっていきました。

それから約5000年後、今から約8000年昔に日本列島に大きな環境の変化が起きました。日本海に対馬暖流が流れ込み、日本海側に雪が多く降るようになったのです。

世界でも有数の豪雪地帯になった信濃川流域は、四季折々の厳しくも美しい自然を育み、縄文人の感性を豊かにしました。そして今から約5000年前、この地で『火焔式土器』が製作されました。

火焔式土器は中部地方の日本海側だけに発達した縄文式土器です。信濃川流域を中心に北は山形県境、西は富山県境、東から南は群馬県・福島県・長野県に囲まれた地域で出土しています。存在した時期は約300年程です。

火焔式土器が初めて全体の形がわかるような姿で出土したのは、今から約80年前の昭和11年(1936年)、縄文中期の大規模集落が見つかった新潟県長岡市の馬高遺跡でのことでした。

「芸術は爆発だ!」という名言や、大阪の『太陽の塔』でも有名な岡本太郎さんが、昭和26年(1951年)に初めて火焔式土器を見た時、「なんだ、コレは!」と叫んだというエピソードがあります。

パリのソルボンヌ大学で民俗学を生んだ岡本さんは、火焔式土器を考古学的な解釈だけにとどめず、その造形美や四次元的な空間性、さらに縄文人の宇宙観や、社会学的・哲学的な解釈に挑みました。そして『縄文土器論』(『みづゑ』1952、 『日本の伝統』1956)を発表し、人々に問いかけました。

今では学校の美術の教科書にも紹介されている縄文土器ですが、それもこの岡本さんの功績によるものだと、宋左近、梅原猛、松本清張、司馬 遼太郎らも認めています。

岡本さんは、『縄文土器論』の中で、以下のように述べています。

「激しく追いかぶさり重なり合って、隆起し、下降し、旋廻する隆線紋。これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感。しかも純粋に透った神経の鋭さ。常々芸術の本質として超自然的激越を主張する私でさえ、 思わず叫びたくなる凄みである」。

出典:「岩手県立博物館だより

確かに実際に火焔式土器を見ると、まず思ったより大きいことに驚かされます。そして非常に複雑な文様と、その立体的な造形美に圧倒されます。今の私達が失ってしまった超自然的な能力を、縄文人は持っていたんじゃないかとさえ思います。

さらに同じ様式の同じ形式のものが複数製作されていたことにも驚かされます。火焔式土器は偶然の気まぐれで製作されたのではなく、ある程度規格化されたもののようなのです。これほどの高度で複雑な土器を規格化して製作する高度な文化が、5000年前の縄文時代にあったということにも驚きます。

この火焔式土器が多数出土する信濃川流域の新潟市・三条市・長岡市・十日町市・津南町が共同で提案した『「なんだ、コレは!」信濃川流域の火焔式土器と雪国の文化』が、2016年4月25日、文化庁が指定する日本遺産に登録されました。

そしてこれを記念し、現在國學院大學博物館では、特別展『火焔型土器のデザインと機能 Jomonesque Japan2016』が開催されています。

新潟県の各所から出土した26点の縄文土器が、東京に一同に集まる大変貴重な機会です。国指定重要文化財の長岡市馬高遺跡から出土した火焔土器や、津南町沖ノ原遺跡から出土した火焔土器、そして国宝の十日町の笹山遺跡から出土した火焔土器などと対面することが出来ます。

岡本太郎さんは「縄文土器は日本が世界に誇るべき美であり、芸術だ」といいました。もし、あなたが実物の火焔式土器を見たら、きっとこの言葉に頷かれることでしょう。

特別展「火焔型土器のデザインと機能 Jomonesque Japan 2016」
会期:2016年12月10日〜2017年2月5日
会場:國學院大學博物館(東京都渋谷区東4-10-28)
入館料:無料

 

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