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『豊臣兄弟!』妹を強制離縁、実母すら人質に…秀吉はなぜそこまで“非情”になって家康に執着したのか

『豊臣兄弟!』妹を強制離縁、実母すら人質に…秀吉はなぜそこまで“非情”になって家康に執着したのか

「秀吉と秀長、今すぐ死んでくれんかのう」。

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第39話「茶々の本心」で、豊臣秀吉(池松壮亮)から真田昌幸と和睦するよう迫られた徳川家康(松下洸平)が、思わず漏らした言葉です。

これはドラマ上の台詞とはいえ、家康の胸中をよく表しているのではないでしょうか。そして、秀吉と秀長(仲野太賀)もまた、同じような思いを抱いていたのかもしれません。

いや、秀吉としては「家康、早く死んでくれんかのう」どころか、「家康、どうすれば討ち取れるかのう」と考えていた可能性さえあります。

『豊臣兄弟!』第40話「あさひの輿入れ」と第41話「家康の野望」では、こうした緊迫した状況のなかで起きた出来事が描かれます。

今回は、この二話を手がかりに、史料から見えてくる事実とドラマの描写を照らし合わせながら、家康がなかなか上洛に応じなかった背景について考えてみましょう。

天正大地震が豊臣秀吉の戦略を狂わせた?

小牧・長久手の戦いは、織田信雄(山脇辰哉)が秀吉との単独講和に応じたこともあり、1584年(天正12年)11月から12月にかけて、秀吉と家康の間で和睦が成立しました。

しかし、秀吉が家康を完全に屈服させたわけではありません。秀吉は家康討伐を諦めず、大垣城を前線基地に定め10万を超える兵力を養うための兵糧を蓄えるなど、虎視眈々とその機会を伺っていたのです。

ところが、そうした状況のなかで発生したのが、1585年(天正13年)11月末の天正大地震でした。

この地震によって、美濃・尾張・伊勢・越中など広い範囲で甚大な被害が発生しました。

長浜城や長島城、蟹江城などが被害を受け、なかでも対家康戦略の拠点とされた大垣城の全壊は、豊臣方にとって大きな痛手だったと考えられます。

一方、家康の領国も地震に見舞われましたが、徳川方が受けた被害の全容は明らかではありません。

しかし、家康にしても小牧・長久手の戦いによる疲弊が残るなか、地震後すぐに大規模な軍事行動を起こすのは容易ではなかったでしょう。

ドラマでは、秀吉が「残った兵糧を民に分け与えよ」と命じる場面が描かれます。しかし、確認できる史料からは、この命令が実際に出されたと裏付けることはできません。これは、ドラマの創作と考えるのが妥当でしょう。

というよりも、その後の秀吉の行動を見る限り、とてもではないが兵糧を民に分け与えるような余裕はなかったとみるのが正しいのではないでしょうか。

2ページ目 秀吉はなぜ家康との和睦を選んだのか

 

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